京都で幸せ妖精ライフ

京都生まれ京都育ち。京都ならではの環境の中、ありのままの自分で幸せに生きるお花畑人生を綴ります(^^)日常の気づきのほか、海外、旅、猫やその他の生き物、自然との感動など、ありのままの自分が感じる感動や幸せ、気づきを皆さんとシェアできれば嬉しいです(^^)♡

自分らしく幸せな人生の視点での選択

他者から見てどうこうではなく、自分が幸せを感じているかどうか

同じ状況でも幸不幸は人それぞれの感じ方、物事の捉え方で違ってきます。

 

持っているものを失うことにフォーカスして心配して生きるのか

持っていることに感謝して、嬉しい気持ちを周りとシェアしていくのかで未来は変わります。

 

心配や諦め、不安は、同じものを引き寄せます。

それは自分の心がそれらにフォーカスしているから

フォーカスしているその視点の先にあるものを、存在するものとして認識するから

 

本当は心配や諦め、不安の先の未来と同じだけ

安心や希望、信頼という幸せの種にも可能性があります。

どちらにフォーカスするかで、自分の生きる世界にあるものの存在の意味が変わります。

 

同じ状況でも、持っているもの、感謝できること、嬉しいことにフォーカスすると、幸せを感じます。

そして幸せがあると信じて視ることで幸せにフォーカスする視点が生まれます。

 

 

同じ状況でもフォーカスするものの視点の先にあるものと同じものを引き寄せます。

自分が見るものが存在し

自分が認識するものが存在し

自分が判断したように存在します。

たとえそれが世間の常識、または非常識と言われる物事だとしても

それは自分がそのように視て決めていること

 

人は世間や社会が自分の生きる世界を作っていると思いがちだけれど

本当は自分が思うように世界を視ています。

自分の物事の捉え方が変わると、視点が変わります。

視点が変わると認識が変わります。

認識が変わると感情、そして思考が変わり、それに伴って言動が変わります。

 

すると今まで付き合っていた人たちと合わなくなったり

付き合いかたが変わったりします。

合わない人とは疎遠になるか、無理に関係を続けていくことになります。

また、今まで合わなかった人と合うようになったり

新しい関係が生まれたりもするでしょう。

 

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自分の幸せに合わせた視点

 

 

もしも今の自分に不満があったり

今の人生、日常が心や身体に無理を強いるものであるなら

もしも今の自分の状況が嫌なのなら

自分の視点を変えてみること

 

世間や社会、周りがどうだからではなくて

自分の心と体が安心してリラックスする、健康で健全でいることを選択することが必要です。

 

日常の一つ一つが嬉しくて幸せを感じるか

それを基準に生きることを自分に許可し、

その自分の視点で物事を視てみると

自分らしく幸せな日常がどんなものかを思い出すことでしょう。

そしてその自分に合う人と生きていく人生にシフトします。

 

自分の幸せに合うかどうかという視点で周りの物事を見た時に感じる感情は

今までの思考を変え、それにより自分の言動が変わります。

もしかしたらそれは今までの人間関係が合わなくなることに繋がるかもしれません。

 

けれども

なんのための人生か

自分が自分らしく幸せに生きることなく

自分らしさを発揮できずに生きることは

自分にとっても世界にとってもマイナスでしかありません。

 

なんのための人生か

人は皆幸せに生きるために生まれてきたはず

それは自分らしく輝いて世界と調和して幸せをシェアし拡大する人生です。

 

もしもあなたが今までそんな人生を生きていなかったとしたら、

自分が幸せに生きることを許可した時に、周りの人たちと合わなくなることもあるでしょう。

それはその関係を解消することになるかもしれません。

けれどもその関係を解消することは

自分だけでなくその人達の自由も選択するということ

お互いに自分らしく幸せに生きることを認めて

それぞれの幸せな人生を生きていくということです。

 

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それぞれが自分らしく幸せに生きていく

 

 

それは今までの人間関係の解消を生み

一人ぼっちになる心細さを感じることかもしれません。

けれども自分をありのままの自分で生きることを許可した時、

それが他者の人生もありのままで生きることを許可することにつながり、

それぞれが自分と合う、共感して共に幸せに生きることのできる人との出会いや人間関係を生みます。

 

もしも今の状況が嫌なら

まずは自分の生命をありのまま大切に尊重する視点に立つこと

 

そこから自分も他者もありのまま尊重して

共に幸せに生きる人生と世界が実現していきます。

そして自分の幸せな人生、自分の幸せに合う自分にシフトします。

 

自分の可能性

生命の可能性を信頼すること

その視点で自分を視ること

それは自由で幸せな人生、世界の始まりです。

 

安心して自分らしく幸せな物事を選択すること

それは自分も他者も世界も

自然体で調和した人生の始まりです。

 

 

 

 

 

 

自分らしく介護する愛に気づく愛を受けとる

 嬉しい再会

 先日、母が施設で転倒し右足と右腕を骨折し入院、無事退院してから2度目の検診のため病院へ行きました。母とはコロナのためずっとテレビ電話での面会だったため、2ヶ月くらいぶりに直接母と会いました。テレビ電話で毎週話している時から感じていましたが、やはり私のことを忘れていました。私はもうそれを覚悟して受け入れているので、母の老いを悲しむよりも、目の前に母がいて母の体温を感じることができることが嬉しかったです。

 

 その日は事前に予約して午前中に受診ということで、受付を済ませレントゲンを撮り、指定された診察室の前で母と二人で診察に呼ばれるのを待ちました。私たちよりも前から待っている人が呼ばれ診察室に入っては出ていき会計を済ませるのを見るとは なしに見ながら、順番が来るのを待っていました。

 すると私たちの前を見慣れた顔の人が通り、振り返りました。それは以前母がデイケアに通っていた施設の室長のYさんでした。そのデイケア施設は、私が毎週親の施設めぐりをする途中にあり、その施設の前を通るたびに私はYさんにお会いしたかったのですが、母がその施設を利用しなくなったので、もうお会いする機会がないなぁと寂しく思っていました。Yさんは40代くらいの女性で、いつも私や母の気持ちに寄り添い、真心を尽くしてくださっていました。そのYさんが、病院で診察待ちの私たちを見つけて声をかけてきてくださったのです。

 Yさんは私に「ずっと、どうされているかと気になっていたので、Kさん(私の母の名前)にお会いできて嬉しいです。どんなご様子ですか?」と話しかけてきてくださいました。そして母に「こんにちは、お久しぶりです。お元気ですか?」と声をかけられ、私が母に「以前デイケアでお世話になっていたYさんやよ」と伝えると、母は「お世話になっております」となんどもYさんに挨拶しました。Yさんは「こちらの方こそお世話になっていました」と言われ、母は何度もなんどもYさんに「お世話になっております」と繰り返していました。

 それからYさんは私に仕事や介護などの生活状況を尋ね、「またいつでも施設に遊びに来て下さいね。気軽に話しに来てくださいね。」と言われました。そして今担当されている施設利用者の方のもとへ戻って行かれました。

 私は母に「Yさんに会えてよかったね。ずっとお母さんのことを気にかけてくださっているんよ」と話しました。母は私に「お世話になります」と言いました。

 

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ともに生きる喜び

 

 見えない思いやりに気づく幸せ

 私は一人で母に付き添い、気を張って母の診察の順番が来るのを待っていました。そこへ思いがけず、信頼しているデイケア施設のYさんに再会して声をかけていただき、ホッとしたのと同時に、「私は一人じゃないんだなぁ。会えなくても一人でいても、何処かで誰かが気にかけてくださっているんだなぁ」と心から感謝と喜びの思いが込みあげてきました。

 そして「私は これは私の役目だとか、自分で頑張らなくちゃとか思ってきたけれど、そしてそれは変わらないことだけれども、自分が大変な思いであったり、辛いとか心細いとか不安だとかという現状を周りの人に伝えることで、真心や手助けを受け取ることができるんだなぁ」とあらためて実感することができました。自分で責任を持つという覚悟とともに、現状や気持ちを周りに伝えていくことで、自分も周りの人たちも安心して幸せをシェアしていくことができるんだなぁと実感しました。私は周りの人たちの真心の中で生きている、感謝の気持ちでその真心を受け取ると、そこにある愛情を社会で循環させていくことができるんだと思いました。

 

 思いやりと真心を受け取る幸せ

 私は「自他ともにありのままで幸せに生きること」を尊重して協力して生きる世界を広めたいと願って、私が今まで生きてきた中で学んだことを皆さんとシェアしたいと思いこのブログを始めました。

 私は無意識に「これは私が対処すること」と思って、子供や夫に対する配慮や親の介護・資産管理など、ずっと家族をケアすることのプレッシャーを抱えて生きていました。目の前の対処すべきことを自分の判断で一つ一つ実行してきました。肉親や家族に相談すると悲しい思いをすることが多かったため、いつからか自分でやるしかないと思っていました。家族に頼ったり相談できる人がいなくても、人は一人で生きているわけではありません。社会に現状を発信すること(市の高齢者担当窓口など)で、必要な手助けを得ることができます。そしてその中で、人としてのつながりができるということを今回あらためて実感しました。デイケア施設のYさんは、今は母がその施設を利用していないため母の担当でもないですが、ずっと母のことを気にかけてくださっています。そして私の現状(仕事と介護のことなど)までも気にかけてくださっているということを今回知りました。

 

 

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真心に気づく幸せ

 

 Yさんと話した後、私は母のむくんだ足のマッサージを一生懸命していました。すると途中でどなたかが、母のマッサージをしてしゃがんでいる私の後ろを通り近くに座られました。私は気にせずにマッサージを続けていました。

 しばらくして看護師さんがその方達を呼ばれ、違う窓口へ案内され、その方達は「ここでずっと待っていたのに違うの!?」と不満を言いながら他の窓口へ移動していかれました。その時に先ほどのYさんが会釈をして私の前を通られました。私は先ほどYさんが「施設の人が転倒して骨折されたのでここに来ています」と言われていたことを思い出しました。

 それから私たちの後に来られた人たちも次々と受診・会計されて、待合室には私と母だけになってしまいました。しばらくしてようやく呼ばれ診察を受けることができました。救急病院のため救急受付が3件あったため、私たちは長時間待つことになったと、診察の時に先生からの話でわかりました。その中の1件がYさんのデイケア施設の利用者さんの転倒骨折だったのだと思います。

 

 救急が3件入って私と母は結果的に2時間以上診察待ちをすることになりました。会計を済ませた時点で、朝に受付をしてから3時間経過していました。前回の検診の時より大幅に待ち時間が多かったのですが、母の気持ちも体調も悪くならず、待ち時間に母のむくんだ足をマッサージして母の足が少しでも楽になったことは良かったかと思います。

 私の両親は何度か救急で病院へ運ばれています。救急だと待つことなくすぐに診察してもらえます。それは同時に、誰かが私たちの診察を優先して待っていてくれていることがあるのだということです。

 そして午前の診療にもかかわらず14時くらいにもまだ診察してくださっている先生がおられるから母は診察してもらえました。

 それは今の日本社会では当たり前と思われることなのかもしれません。けれどもそれは当たり前のことではないということを私は知っています。

 救急病院のあり方、社会のシステムなどに対する課題や批判もあるかもしれません。

 ただ、私が救急が3件重なり診察まで2時間以上待ったことは、Yさんとの再会の機会でもありました。Yさんの言葉だけ取り上げれば「社交辞令では?」とも取れるのかもしれません。けれども私はYさんの目、Yさんの母の手を握る姿を目の当たりにしました。Yさんの発する言葉の温もりも感じることができました。実際に診察してくださった先生とのやり取りもありました。その経験の中で私が感謝と幸せな気持ちを受け取ることができたことは事実です。

 

 

 循環する愛と思いやり  

 私は今回の母の診察の付き添いでたくさんの幸せを得ることができました。

 母と元気に再会できたこと、母が生きていることを嬉しく感じる自分がいること、私たちを気にかけてくださっている人たちの存在を実感し、感謝と喜びの気落ちを持てたこと、救急診察一つとっても、人の思いやりに支えられているということに気づくことができました。自分が一人でいる時にも気にかけて手助けしたいと思ってくれている存在があるということ、そして母の姿を見て、人は老いて記憶がなくなってもその人らしく生きるのだということにも気づくことができました。

 それらは私にどう生きること、どう歳を重ねることが幸せなのかということを教えてくれました。

 私は一日いちにち生きるごとに安心と自由を得て、幸せを感じています。身体は一日いちにち年老いて死に向かっているのかもしれませんが、「今日が一番若い日」とも言います。そして何よりも私は日々幸せが増えていくことを実感しています。それは日常が特別変化したわけではなく、自分自身が幸せに気づくことが増えているからだと思います。そして本当の意味での自立、人とともに生きる意味を知り得たからだと思います。

 

 皆さんと幸せをシェアしたくて、長々と先日の出来事を綴りました。どうか皆さんの日常も幸せにあふれた毎日でありますように、、、皆さん・この世界への感謝の気持ちとともに心から願っています。

 

 長文最後までお読みくださりありがとうございました。

 

 

 

 

 

幸せな日々の意味を知る

 自分らしく幸せに生きるために

 

 私のブログでは「ありのままの自分」「本来の自分」「自分らしく」と言った言葉が多く使われます。その自分の幸せを選択して生きることが、自分も他者も尊重して平和な世界を作り広げていくということを、私はこのブログの中でお伝えしたいと願っています。

 

 * 幸せはこの世界の外にあるのではない。

 * 本当の自分は、今の自分から離れたところにはない

 * 今の自分も本来の自分もありたい自分も、全て今の自分自身に内在している

 * 過去がどうあれ、今の自分がこれからの自分の人生を作る

 * 今の自分の人生は過去の自分の結果であるから、今の自分がこれからの自分の人生を作る

 

これからのブログの中で、私の経験や学んだこととともに、これらのことを一つ一つお伝えしていきたいと思います。

 

 本来の自分の望む幸せとは

 「自分」という概念は、心理学ではアイデンティティや自我というものに結びつきます。「ジョハリの窓」のように、「自分から見た自分」、「他者から見た自分」といったもの、「 社会的自己像」、「ありたい理想の自分」など様々な視点や捉え方による「自分」があると思います。「自分らしく」とか「ありのままの自分」とか、「本来の自分」と言われても結局よくわからない、またはその時々で色々な自分がいる・・・ということもあるでしょう。

 

 幸せに生きるために必要な「本来の自分」の望む幸せを知るために必要なことは、そんな概念から導き出すものよりも、"「心地いいもの」「安らぐもの」「喜びが溢れ出るもの」は何か? " ということにに注目する方がよくわかると思います。それら心地よいものが、自分自身の幸せに必要なものということですね。

 

 日々を安らいで幸せに生きることは、そんな自分が心地良いものを大切にすることから始まると思います。それらを後回しにしたり、諦めることが日常であれば、それは「本来の」「ありのままの」「自分らしい」自分でいることを二の次にしているということ。自分の生命(自分の健康・時間、存在そのもの)を二の次にしているということ。そんな人生を本当に自分は望んでいるのか、今一度自分の心に尋ねてみることが、これからの人生をより健康に幸せに生きることへ繋がるのではないでしょうか。

 

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日々を安らいで幸せに生きる


 幸せに生きるために大切なこと

 世の中には「本当の幸せな人生」「本当の自分」への探求を促す思想やメッセージがあふれています。自己啓発、生き方のスキルアップ方法といった現実の生活に根ざしたものや、古来からの世界の法則を学ぶこと、精神世界への誘い、様々な宗教などがあります。

 皆さんの中にも、それぞれの気持ちや考えに合ったものを信じて実践したり、リスペクトして生活している方も多いと思います。

  私は幼少の頃からの性格や生育環境からくる悩みを解決したくて、それらの様々なことを学んできました。その学びの中で気づいたことがいくつかあります。

  誰もが健康で安心安全に生き、幸せな人生の中で自己実現を目指すことは、人の自然な欲求です。自己実現がどんなものであるのかは人それぞれですが、どの生き方、どの人生でも共通する、幸せに生きるために大切なことがあります。それは

 * 現実を離れての幸せはないということ

 * 自分を犠牲(無理を強いること)にしての幸せはないということ

 * 自分の生命の可能性を信じることが大切だということ

です。一見当たり前、当然のことのようですが、時にはこれらを見落としたり意識しないように、半ば諦めて生きることもあるのではないでしょうか?

 

 また、「幸せ」や「自己実現」を目指す中で、先ほど述べたような「本当の自分」を追求していくうちに現実から乖離することや、今の自分とは別の人格を目指すといったことも起こり得ます。それは、真摯に自分の幸せや平和な世界の実現を目指す気持ちからのこともあれば、ただ今の現実を変えたいという欲求からそこへ傾倒していく場合もあるでしょう。

 例えば、” スピリチュアルなメンターが「望む未来や欲しいものが手にはいる」と言って、そのセミナーやワークに参加していくうちに、現実よりもその世界に生きることが幸せで、お金と時間を費やしていく ” など、世の中にはそんな場面が多くあります。自分の興味あるセミナーなどはインターネットなどで調べればすぐに見つかりますよね。大抵それは、自分の欲求に合った「思い」が提供されます。

それは「メンターとなる何者かによって欲しいものが得られる」、「これをマスターすれば、思い通りの人生が開ける」、「この時間この場所に行けば、望んでいる気持ちが満たされる」といった思いなどです。

  

 これらには共通した思いがあります。

 それは、幸せな人生を生きるのに「本来の自分では足りない」という不足感です。

 「自分の持つ本来の力を信用していない、またはそれを引き出すことは非常に困難である」「自分には〇〇が足りない、だから他者から与えられる必要がある」という思いです。

 そして、「今の自分」では自分の望む人生は得られないと思い、「本来の自分」をこの世界とは別の世界に求めることもあります。それは「この世界は仮の世界で、本当の自分は他に存在する。本当の自分で生きるためには〇〇が必要だ」、「この世界には生きる価値がない、私はもっと素晴らしい世界に生きるために〇〇が必要だ」などというものです。

  類が人を呼ぶのか、自分が不足感を持って他者や自分以外のものに不足だと思うものを求めると、同じ気持ちの人と出会い集まり、その思いを利用して、それが満たされるかのようなセミナーや物販を提供する指導者を名乗る人と出会ったりします。

 

 

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自分のままで幸せに生きる


 自己啓発などで「今の自分」に良いものを加えようとすることとは違い、「今の自分」ではダメだと否定し、別の自分を目指すことは、自分の人間性や性質を自ら否定し拒むことであり、それは本来の自分を愛さずに傷つけることになります。

 「今の自分」を受け入れないことは、何をしても満たされない自分を作ります。

 その「満たされない自分」が外から何かで満たそうとする、そんな思いが「ここに行けば幸せ」「これがあれば幸せ」「こんな自分になれば幸せ」という思いを生み、その不足感に合う世界へ引き寄せられていきます。

  自分の心地よい錯覚を与えてくれるものに惹かれて、

 * 「ここではないどこか」 違う世界・・・この世界を否定した先にある「本当の自分」が存在する世界や、

 * 「今の私ではない自分」・・・  "「完璧な」「愛される」「満たされる」自分 "  を自分の外へ求めることは、「ありのままの自分ではダメだ」と思い、自分の幸せを外の何かで満たそうという思いです。

 

 「自分のままで幸せに生きることができる」ということを信じるだけでも、幸せは身近に得ることができると思います。

どこか素晴らしい世界へたどり着く必要もなく、他でもないこの世界で、

今の自分を離れた別の自分になるのではなく、この自分のままで、

いつかの誰か(先祖など)の障りが自分に影響しているのでもなく、自分をあるがまま幸せに生きることは可能です。そしてそれは生命の可能性を信じることで、自分の幸せに生きる力を信頼することから始まります。

 

 

 

 

 

 

 

新しい朝

同じ現実なのに

状況は何も変わっていないのに

私の生きる世界が変わった

 

 

不安で真っ暗なトンネルを歩いている夢を見た

暗澹たる気持ちで目が覚めた

窓の外は曇り空

 

思うようにことが運ばない

為すすべもなくうなだれる

 

このまま逃げてしまおうか

諦めて楽に生きようか

 

私は幸せに生きると決めたのに

 

私は何が不満なの

私は何が不安なの

 

 

目の前の現状を改めて見渡して見た

思うように運ばない

けれど

それでもその現状が

存在すること自体が

 

生きて

人と

世界と

繋がっているということ

 

それは

私の側に人がいてくれているということ

それは

家族や友人、恋人ではないかもしれないけれど

 

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誰でもない私の幸せ

 

私は私らしくいるだけでいい

幸せなことを見つけるだけでいい

それは誰でもない私の幸せ

 

私が自分らしく幸せでいることが

誰かの希望になるということに気がついた

 

 

生きて

自然に息をして

自分の足で歩いていく

その中で感じる

匂い

暖かさ

冷たささえも

 

生きているからこそ

 

それを味わい

楽しむ

 

それだけでもう

幸せはそこにある

 

ありのまま感じて

ありのまま味わう

 

その幸せを抱きしめる

 

 

窓の外は曇り空

雲にも色があることに気づく

 

 

同じ現実なのに

状況は何も変わっていないのに

私の生きる世界が変わった

 

 

それは現実は

自分の見る世界だから

世界をどう見るか

世界のどこを見るか

 

視点が変わると

世界が変わる

 

同じ現実なのに

状況は何も変わっていないのに

私の生きる世界が変わる

 

 

 

 

 

 2020.1.26 for you

私らしく幸せに生きる「本来の自分の幸せな人生」の見分け方とそのための生き方は

 ☆当然のこととして「ありのままの自分で幸せに生きることを選択する」

 私は幼少の頃から、自分の育った環境や性質から、自己肯定や自尊心が低いまま大人になり、そんな自分に合う現実を生む選択や振る舞いをして、苦しく辛い人生を引き寄せて生きていました。

 けれども、世の中には私のような思いをして生きてきた人ばかりではなく、両親や周りの大人から愛情を受けて自己肯定感や自尊心、自己愛が順調に育って、自分らしく周りと協調して生きている人もたくさんおられます。幼少期、青年期に必要な経験や愛情を得て、成人して社会人になった時に、「自分らしい」かどうかを振り返ることをしなくても自然体で物事に対し、素直に他者からの愛情や厚意を受け取り、心身ともに健康に幸せな毎日を送る人もたくさんおられると思います。

 そんな人々の中には、私の記事を読まれても、他人事で共感や興味もない人もおられるでしょう。また、経験としては理解できなくても、気持ちに寄り添い、自分の周りに私のような人がいれば手助けしたいと思う方もおられるかと思います。

 このような人々にとって「ありのままの自分で幸せに生きることを選択する」ことは、当たり前のことで、自分の「本望の人生」がどんなものか改めて考える必要もないほど日々に満足している方もおられるでしょう。

 ではなぜ私は「ありのままの自分で健康で幸せな人生を選択すること」の大切さを、皆さんにお伝えしようとしているのでしょうか?

 

 その一つの理由として、そのように生きることが困難な人へ、幸せに生きるために必要なことを伝えたいということがあります。

 私がこのブログでお伝えしている内容を自身の人生で当然のこととして、日常をそのように生きている方には、私がブログでお伝えしていることを、あなたの周りにいる「不満や苦痛を強いながら生きている友人知人」にお伝えしていただければ嬉しいという思いがあります。

 「類は友を呼ぶ」ということわざの通り、自分の周りにはそんな人はいないという方もおられると思いますが、人は普段、「今の人生に満足している自分」「今の生活で満たされている自分」でありたいと願い、そんな自分であるように他者に見せたいと無意識に思って、「そのような自分らしく」他者と関わっていることがあります。それは日常の社会生活で無意識の自己防衛からの判断かもしれません。それはもしかしたらご自身にもあることかもしれませんし、あなたの周りの「満足して生きているように見える」人(家族や友人知人)かもしれません。

 

 本心から「ありのままの自分で健康で幸せな人生を選択すること」を日常の中で当然のこととして生きている人は、心身ともに自分を大切にして無理のない日常を心がけておられると思います。

「ありのままの自分」を肯定して受け入れている人は、日常の選択が自分の気持ちに即したものであるため、過剰な無理をせずにストレスの少ない日常であることが多いと思います。そして、ご自身がそうであるから、他者(自分の周りや社会)を尊重して、協力していこうという素直な思考のもと、他者の存在をありのまま認識して、それらに対して自分を適応させたり、適度な距離感で対していくことができるでしょう。

 人は社会性を持つ生き物です。通常この社会は、一人では生きていけません。自分を健全に保ち、他者と適度な距離感で互いを尊重し、協力して生活していけることは、健全で心身ともに健康で幸福な日常、人生を生きることにつながります。

 

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ありのままの自分の幸せな日常

 

  ☆「ありのままの自分で健康で幸せな人生を生きる」ために必要なことは?

 「ありのままの自分で健康で幸せな人生を生きる」ために必要なこととして

*ありのままの自分を肯定して受け入れ、尊重すること

*その自分で生きることを肯定し、その人生を生きることを認めること

*自分も他者も、そんな人生を生きることを認め尊重すること

があります。

 

 「ありのままの自分で健康で幸せな人生を選択して」生きている人にとっては、どれも当然のことであると思いますが、これらが当然でなく、自分に無理や我慢を(本意不本意に関わらず)強いて日常を生きている人にとっては、これらの実践が難しいことが多いのです。

 

 これらの実践が難しくなった要因には、生まれ育った家庭環境や、自分自身の性格、社会環境、人生で起こった出来事などからの思い込みや勘違いなど、様々なものがあります。その要因と一つ一つ向き合い

なぜ「ありのままの自分を肯定できない」のか?

なぜ「ありのままの自分を受け入れることができない」のか?

なえ「ありのままの自分を尊重することができない」のか?

それらを自分に問うていく中で、幼少の頃の出来事や、社会に出てから経験した辛い思いなどに行き当たるでしょう。その時に、

なぜそう感じたのか?

なぜそう考えたのか?

なぜそう判断したか?

を思い出してみることで、その時の自分の感情や思考の動きや、その感情や思考の生まれる原因を発見するでしょう。それは大抵、家族や周りの常識や概念・固定観念と自分のそれとのズレを無意識(または不本意)に受け入れ、他者のそれらに従うことを自分に課したことが原因であると思います。

 他者のそれら「常識や概念・固定観念など」が自分の幸せや安心な状態を保つこととズレているのに、「生きるために他者に従うことが必要」と判断して、そちらに従う人生を生きるうち、「ありのままの自分で健康で幸せな人生を選択すること」がどんどんと困難になっていきます。そして本来の自分の幸せな状態がわからなくなっていきます。そんな状態では、

なんだか苦しい

なんだか心から安らげない

なんだか心から幸せを感じることができない

 毎日が安全で安心で不足ないはずなのに、なぜかどこか不安で落ち着かない、「心の底から幸せ」というよりも、これが幸せよねって、ベターな幸せなはずって、本心からの幸せ(ありのままの自分で健康で幸せな人生)であると思い込もうとしているけれども、心のどこかで「幸せじゃない」思いがうごめいている、、、という日常を生きることが多いと思います。

 

 「これが幸せよね・・」って、自分自身に幸せである実感がない状態。それは他者の幸せの概念に合わせて、ありのままの自分の幸せに合わせていないから。

「これが私のベターな人生よね・・・」って、ベストな人生を生きられると信じられず、諦めているということなのかもしれません。もしそうであるならそれは

*ありのままの自分を肯定して受け入れ、尊重すること

*その自分で生きることを肯定し、その人生を生きることを認めること

ができないから、ベストな人生を生きることを肯定できず、受け入れ尊重できないために、ベストな人生を生きること(ありのままの自分で健康で幸せな人生を選択すること)を諦めているのかもしれません。

 ベストな人生(ありのままの自分で健康で幸せな人生)を生きるためには、

*ありのままの自分を肯定して受け入れ、尊重すること

*その自分で生きることを肯定し、その人生を生きることを認めること

*自分も他者も、そんな人生を生きることを認め尊重すること

が必要なのだと思います。

 

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自分にとってのベストな人生とは?

 

 ☆ベストな人生を生きるために必要なこととは?

 人には人のそれぞれの人生がありますが、人の幸せの基本として、「マズローの欲求5(6)段階(自己実現理論)」でいうならば、その初めの欲求である「生存欲求」から順調に満たされて生まれ育った人は、自分なりの幸せな人生を選択して生きていくことが多いと思いますが、それでも社会に出てから改めて生存欲求をはじめとする欲求を満たすために自分と向き合っていかれると思います。どの人生の段階かから、上記で述べた

*ありのままの自分を肯定して受け入れ、尊重すること

*その自分で生きることを肯定し、その人生を生きることを認めること

*自分も他者も、そんな人生を生きることを認め尊重すること

 が困難となり、「ベターな人生」を選択する人も多いと思います。

 けれども、人は本来ベストな人生を生きることが可能であり、一人一人のベストな人生を確保できる社会を目指すことが、人々が幸福で調和のとれた世界の実現につながります。

 

 

 ☆「ありのままの自分で生きる」ことは健康で幸せな人生の基本

 それではベストな人生には「ありのままの自分」であることが必要なのはなぜでしょう?

「ありのままの自分」とは「本来の自分」であり、人はそれぞれ生まれ持った自分自身の性質や特徴があります。

 

 もしもそのありのままの自分自身で生きることができないならば、どうなるでしょう?自分自身の性質を否定されたり、認められないとしたら?周りの(家族や社会)に合わせた言動や思考を強いられ、本来の自分でいることが許されない(本来の自分でいると常に否定されたり咎められたり、排斥される、または自分でそう判断して本来の自分でいることを許可できない)としたら?

 本来の自分を押し殺して生きることは、自己否定につながります。それは自己肯定や自尊心の低い状態を生みます。その状態は、自分が幸せな人生を選択することを阻みます。

 

この件については別の記事に詳しく述べたので、よろしければこちらを覧ください。⇩

niziironohikari.hateblo.jp

 

 人は誰人も等しく「健康」で「幸せ」な人生を生きる権利があります。 

 「ありのままの自分で生きる」ことは、健康で幸せな人生の基本となるものです。

 「ありのままの自分」を肯定し認めることで、本来の自分自身に対して、大切されることや愛を受けることを許可できます。それは自分を大切に思う気持ちを育てます。そして自分を大切に守る感情と思考を生み、「自分自身に本来の自分のままで健康で幸せな日常を与える人生」につながります。

 

「ありのままの自分で健康で幸せな人生」とは、人として幸せに生きる当然の権利を守ることであり、自分も他者も幸せに生きることを尊重して協力して生きる世界を広げることでもあります。

 

 ☆心から幸せと感じているか?

 「ありのままの自分で健康で幸せな人生」を実現することは、本望の人生(本来の自分が望む人生)を生きることにもつながります。本来、人は幸せに生きることが本望であるからです。

 

 本望の人生であるかは「自分自身が心から幸せと感じているか?」ということで見分けられるかもしれません。

「心から幸せ」であるためには「安全」「安心」「健康を確保する」などマズローのいう生存欲求を満たすことが必要であり、それ自体に課題のある方もあります。そんな人たちの幸せも確保できる世界を実現確保、広げることが、自身の幸せにもつながります。そしてその第一歩は、自分自身が本望の人生を生きることであり、それはまずそう生きると決めることから始まります。

 本望の人生を生きる時、人は心から満足し幸せを感じます。それは心身ともに健康で前向きで元気な日常を生みます。

 もしも日常がその逆で「健康でなく」「後悔や愚痴や諦めの心」で「生きる気力」が湧かなかったり無理を強いる必要があるなら、それは「本望の人生」「自分自身の幸せな人生」とは言えないのではないでしょうか。

 誰もが生きる権利のある、そしてそれが世界の調和と幸せを拡大する人生、それが「本望の人生」「本来の自分らしく幸せな人生」であると言えます。

 その人生を生きるために必要なことは、「ありのままの自分で健康で幸せな人生を選択すること」であり、私は私達一人一人がその人生を実現できることを心から願っています。

 

 「本来の自分」「ありのままの自分」は人それぞれ。「本来の自分の幸せな人生」「ありのままの自分の幸せな人生」も人それぞれだと思います。それは仕事での挑戦であったり、家庭での生活や社会貢献であったり、ただ一日一日を味わうことであったり、幸せな日常は人それぞれだと思います。

 自分を大切にすることができれば、自分の生きがいに挑戦したり楽しむことで、日常が輝いたものになるでしょう。

 

 どうか皆さんの日常が、健康でリラックスした自分らしく幸せな毎日でありますように・・・。

 

 拙い長文を最後までお読みくださりありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

色の作用を日常に

ありのまま輝く私

風の中
その身のままに
生命
輝かせる
光の中
私は私を抱きしめる

 

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ありのまま輝く私

 

 

 私は現在画家として、色の作用を活かした作品をお届けしています。
 色はその波長によって人の心身に影響を与えています。例えば、真っ赤な部屋に入ると目隠しをしていても血圧が上がったり、病院などの壁やカーテンの色に薄緑色が使われていて、気づかないままにリラックスしたり血圧を安定させていたりします。私の描くヒーリングアートは、下塗りの色から完成までを、色の作用を狙って制作しています。

 下塗りの経過などはhttps://www.creema.jp/creator/234に掲載しています。よろしければご覧下さいませ(*^^*)。

 この作品は、リラックスして自分らしく輝きたい人を応援する気持ちを込めて作成しました。
 私の制作した作品がご覧くださった方の日常に寄り添い、皆様の日常がリラックスして自分らしく力を発揮できる幸せな毎日であることを願っています。

 

 それぞれの色の性質やその作用は、こちらでご紹介しています。よろしければご覧くださいませ。⇩

snowyのオリジナル絵本(絵と文章)です♪ - snowy-art Jimdoページ

 

  ずっとお休みしていたcreemaでの販売を再開しました。まだこの作品しか出品できていませんが、これから少しずつ必要とされる方にお届けできるよう、 作品を出品していこうと思います。よろしければそちらもご覧いただければ大変励みになり幸せです(^-^)。

 

 ショップはこちらです⇩

www.creema.jp

 

 それぞれの色には波長があります。目に見えない範囲の波長も見える範囲の波長も、心身に影響を与えます。目に見えない紫外線で皮膚が日焼けしたり、 赤外線で体が温まったりするように、見える範囲の波長である色にも、それぞれの持つ波長による心身への影響があります。それらを効果的に用いて日常を過ごすことで、意図する効果を得ることが可能です。皆さんも普段意識せずにいる色に注目して、色の効果を利用してみられてはいかがでしょうか?普段使うノートの色、ネクタイの色、衣服の色・・・何気ない日常が、あなたを勇気づけたり癒したりする色に彩られることは、あなたの心身の健康で幸せな日常の手助けになると思います。あなたの日常が、色の応援でますます輝きますように・・・。

 

 



私のままでいいんだよ自己肯定と自尊心

 最期の時は本望か

 

 最近、仕事でお世話になった方が突然亡くなりました。心よりご冥福をお祈り申し上げるとともに、自らの今を振り返りました。私は もしも今人生が終わったとしたら、幸せか、悔いはないか・・・。

 

 人も含め全ての生物は、いつか終わりの日を迎えます。それは決まっている自然の理りです。終わりの瞬間をどう迎えるのか。恐怖や悲しみの中で迎えるのか、喜びや安心の中でその時を迎えるのか。「その時」はいつやってくるかわかりません。年齢や状況に関係なく突然おとずれることもあります。(私の友人の息子さんは「おやすみ」と言って普通に就寝した翌日の朝、布団の中で冷たくなって発見されました。元気な19歳の息子さんでした・・・。)

 「その時」がいつ来るのかわからない。「終わりの瞬間をどう迎えるのか」は、その瞬間を「どう生きていたのか」ということ。その瞬間はおそらく生きてきた日々のその先にあるもの。毎日をどう生きているかが、どうその時を迎えるかに繋がるのだと思います。

 

 どんな最期であれば、幸せか、悔いがないか・・・?病気や事故など亡くなり方は様々ですが、その時にどんな思いで逝くのかは、自分の選択する日々で決まるのだと思います。

 人や社会に合わせて不本意に生きていたのであれば、自分の生きたかった人生や、やり残したことを思ってこの世に未練を持ったままかもしれません。あるいはそれすらも諦めて寂しく残念な思いであるかもしれません。ただ、人や社会に合わせることが不幸だというわけではなく、どんな人生であっても、自分の本望の人生であれば、その時に悔いはなく晴れ晴れと逝くのだと思います。いつその時が来ても悔いのないように、「これが終わったら自分の本望(心から望む幸せ)の人生を生きよう」ではなく、本望の人生の中で、本意であることのできることをしていこうと思います。

 私は、この時をありのままの自分で幸せを選択して生きていくと決めました。その私の姿が、周りの人の希望や道しるべになれば本望です。

 

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今が最期の時だとしても悔いはないか

 

 自分を大切にすることは人権・幸福・平和の基本

 私の記事の主なテーマは「” ありのままの自分で幸せに生きること ” で、自他ともに尊重し幸せに生きる個人の幸福な人生と、平和な世界を目指す」というものです。

 

 心理学の用語に「セルフエスティーム」というものがあります。その意味は「自分を大切にすること」です。日本語では「自己肯定感」「自尊心」などと訳されます。

 またエンパワメント・センター主宰の森田ゆり氏は人権意識とは「自分を大切にすること」であり、「日本では自分を大切にすることは利己的で悪いことであるかのようにとられがちである」という問題性を指摘し、「人権意識を持つということは憲法や権利条約を学んで知識を増やすことではなく、高いセルフエスティームを持つことにほかならない。」としています。

(森田ゆり『エンパワメントと人権 こころの力のみなもとへ』 解放出版社, 1998年, PP.31〜34)

(以上参考文献:社会教育特講 木全力夫・平井康章 H14.2.25 新訂版 創価大学出版部 広文堂印刷(株) p104〜p105 )

 上記の森田氏の記述は1998年に出版されたものに記載されており、この頃よりは現在の日本では「多様性」「SDGs」「LGBT」など個人や世界、マイノリティなどの様々な視点で人権が見直されているようですが、「自分を大切にすること」、つまりは高いエスティームを持つことが自分を護り他者を尊重して、健康で平和な社会を築くための大切な基本であることは変わりないことだと思います。

 

 自分を大切にすることは、他者を大切にすることへの意識を生みます。

 自己肯定は、ありのままの自分、そのままの自分を肯定することです。

 日本エスティーム普及協会のホームページには、

*  " 自己肯定感とは自己価値に関する感覚であり、自分が自分についてどう考え、どう感じているかによって決まる感覚 "である。

 

* " そのままの自分を認め受け入れ、自分を尊重し、自己価値を感じて自らの全存在を肯定する「自己肯定感」の感覚は、何ができるか、何を持っているか、人と比べて優れているかどうかで自分を評価するのではなく、そのままの自分を認める感覚である。

 

* 「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない存在」だと思える心の状態が土台となる。

この感覚を持てると、自分を尊重するように、他者や周りも尊重できる。

すると他者からも尊重され、お互いに尊重し合える関係が作れる。 "

 

ということが記載されています。( https://www.self-esteem.or.jp/selfesteem/ )

 

 自分をありのまま受け入れ肯定すること(自己肯定)が、自分も他者もありのまま尊重する意識を生みます。それが人権の基本です。

 私はこのようなセルフエスティームを主軸として生きる時、自分も他者も尊重して協力して生きる世界が広がるのだと思います。

 

 

私の人生は長らく

"「自分はダメな人間だから」こうあらねば "、

"「愛されるために」これができなければならない" といった、

自分を肯定できず、自尊心の低い自分の人生でした。

その人生は自分を大切にするよりも家族やまわりの人を優先する、苦しい人生でした。

 

 私は結婚後に、その原因が自分の自己肯定、自己受容、自尊心の低さからきていることに気づき、自分を育て直してきました。母への心の葛藤、子供への口惜しい気持ちを胸に、自分をありのまま受け入れ認め愛することで、自分を育て直して、トラウマや虐待の連鎖を断ち切ってきました。

 私は自分を育て直し自立した結果、共依存関係だった夫とのバランスが崩れ、私の人生は本来の自分を大切にする生き方に変わりました。

 

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自己肯定・自尊心は人権・幸せな本望の人生の基本

 

 人として健康・健全に生きる権利を求め護る

 もしも今、私の子供が小さかった頃に戻るなら、あの頃と同じ生き方はしません。今の私は、あの頃の私とは違います。今の私は、ありのままの自分を受け入れ肯定し、自分らしく生きることは、人権を尊重した健全な人生であることを認識しているからです。今の私がもしあの頃に戻るなら、家族の依存(DVや人生の強要など)を拒み自立した人生を選択します。もしもそれが社会通念からずれていたとしても、まわりに理解されないとしても、自分の「人として健康・健全で幸せに生きる権利」を護ります。

 それは、自分が幸せな人生を得ることの大切さとともに、子供にその人生を示すことで「自立して本望の人生を選択することは、当然認められる人権を護るものである」ことを、子供に伝えたいからです。

 いくら子供に「自由に思うように生きれば良い。」「あなたの人生を誰かのために犠牲にしてはいけない」「私(親)もあなた(子供)も同じ一個の人間であり、尊重される必要がある。」と口で伝えたとしても、行動が伴わなければ、本当の「人権」「幸せになる選択をする権利」を伝えることができないからです。

 私が子供のために不本意な人生を生きるならば、子供にその人生を雛形として見せてしまいます。本望の人生を選択したら自分の人生に責任と覚悟も生まれ、自分の人生の幸不幸を家族や社会など他者の責任にすることもないでしょう。

 私はそのことに子育ての途中で気がつき始めましたが、自分の中の古い常識から「子供はできるだけ両親揃って子育てすることが良い」と形式に囚われて身動きできずにいました。その実、自分が人生を変えることが怖かったのだと思います。自分が一人で子供と生きていく自信と勇気が足りなかったのだと思います。それはその時の私には自分の生きる力への信頼と、社会からの支援の知識が足りなかったためです。

 自分の人生を尊重しても、自分の人権を護っても、子供を育てることはできます。子供を養育することは親の責務と愛情です。それはどんな状況や形ででも果たすことができます。子育ては一人でするものではありません。自分の人権や安全で健康・健全な生活を確保しながら子育てをすることは可能であり、それが可能であることは社会的にも保証される必要があります。

 

 自分自身の生きる力と社会からの支援

 過ぎたことなので今更言ってもたわ言になるかもしれませんが、今の私なら、形ではなく本当の自立した幸せを子供に伝えるために、人生を変えます。

 それは、どんな時も自分らしく元気に生きていけるということがわかったからです。私自身の生きる力と、社会からの支援を知ったからです。

 

 当時の私は悩みながらも他者に相談していませんでした。ただ耐えていました。人生を変える決意をした時に初めて、公共のDVなどの相談窓口を訪ねました。そこで様々な支援があることや、自分の今の状況が社会的に見ても普通ではない、人権侵害や生命に関わることであるという事実を知りました。その状況に甘んじることは自分への人権侵害であり、子供へも言い訳できない「自分の可能性と社会のサポートを信じきれない諦めの共依存関係の家庭を維持する」ということになると知りました。

 

 それは一つの公共施設の無料相談から始まりました。私は一人で悩み諦めていましたが、相談すると次々と現状を客観的に知ることができ、改善のための方法が示されていきました。それらは相談することで知り得たものでした。書籍などで知識として知っていたことも、自分の身に沿ってどう対処すれば良いかという視点や情報、スキル、支援団体の存在などを直接専門家(私の場合は府市町村に設置された「女性・市民」「法律」「DV」の相談窓口など)に相談することによって得ることができ、具体的に人生を動かす力となりました。だから今の私であれば、もし今あの時の状況であっても、あの頃のように諦めの人生を生きないと思います。

 

www.moj.go.jp

 

www.houterasu.or.jp

 

 今私は子供たちに事実を伝え、「自立することの大切さ」、つまりは「自己肯定・自己受容をしてありのままの自分を受け入れ認めることによって、自分を受け入れ愛することで自立する」ことの大切さを伝えています。

 自分の人生は自分のもの。誰かに委ねて幸せ不幸せを誰かのせいにして不本意に生きていくのも、自分の本望に生きて「これが私の人生だ」と自立した心でまわリと協力して仲良く生きていくのも、自分自身の選択です。

 

 人には本来、自分らしく元気に幸せに生きていく生命が備わっています。 

 そして今私はそれを保証する人権を尊重する社会に生きています。

 それが叶わない状況であれば、助け合い協力しあえる社会に生きています。

 その社会状況を活用するためには、どんな手助けがあるか知らなければなりません。

 そのためには自ら求めること、声を上げることが必要であることを、私は経験の中から学びました。

 求める気持ちがあれば、市町村の広報や必要な支援を受けられる団体の広告などが目に留まります。幸せでないなら、諦めず、こんなものだと受け入れず、なりたい自分、生きたい日々を求めて顔を上げること、求めることが、自分も他者も幸せに生きる人生の始まりだと痛感しています。

 自分の子供に伝えるとともに、過去の私と同じような辛い思いをしている人が「自分の人生は変えることができる」「自分には健康に幸せに生きる権利がある」ということに気づき、必要なことを求められるようになることを願って、今私は これを書いています。一期一会で出会った方、お会いしたこともないけれどこのブログなどでふと読んでくださった方、作品展示の際のスピーチなど、機会があれば喜んで私の知り得たことと、自分自身の人権を護る大切さとその方法をお伝えしていきたいと願っています。

 

拙い長文を最後までお読みくださりありがとうございました(^-^)/。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

虐待の経験を幸せの連鎖へ老い忘れても

  虐待の連鎖を幸せの連鎖へ 

 

 私には息子が一人、娘が一人います。今日は虐待の連鎖を感じながら子育てをした経験から得た、私の学びを記したいと思います。

  私の息子はものごごろついた時からマイペースで自分の世界を持って生きていました。私の実家でも夫の実家でも初孫であり、みんなに大変愛され大切にされて育ちました。

  

 一方、私は幼い頃から母の監視下で母の言うことを聞かないと許されない環境で育ちました。私がしたいこと、欲しい物事を母に主張すると、母は私の気持ちを受けとめる前に自分の価値観で判断したことを私に与えました。それを拒んだり、母の思惑とは違うことを私が欲すると、徹底的に否定され、母の思い通りにするように強要されました。それでも私が抵抗すると、母は私への人格を否定し、時に「頑固な子だ」「バカな子だ」と罵倒したりあざ笑ったりしました。そして私が母に従うまで力ずくで強要されました。母の意に沿わないことをしてしまった時には、罵倒暴言はもちろん、ホコリ取りの柄の部分(細い棒)で毎日叩かれて逃げ回っていました。

 

 私は自分の子供には、個人を尊重して自分らしく育って欲しいと願い、息子が言うことは否定せず話を聞いて息子の気持ちを受けとめることを心がけていました。

 息子は家族からも周りの大人からも愛され、のびのびと育ちました。その様子は、私には考えられない自由さで、わがままでもなんでも言いたいように言い、したいことを当然のように主張する息子を見て、ある日私は言い知れぬ怒りが湧いてきました。

「この子はどうしてこんなわがままな言動が許され愛されているのか?私がこんなことをしたら否定され罵倒され大変な目にあっていたのに。」と言う理不尽な思いが溢れてきて、それが目の前の息子への怒りとして現れました。どうしようもない怒りに襲われ、自分が子供を虐待してしまうと自覚しました。

 

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幸せの連鎖へ

 

 

 私は知識として「家庭での虐待の連鎖」を知っていました。

 それは

・子供への虐待は自分の育った家庭環境が反映されたものであることが多い

・虐待されて育った人は自分の子供を虐待してしまいやすい。

 それが虐待の連鎖

 そして

・人は良くも悪くも自分が育った家庭環境を無意識に雛形(基準)にする。

・自分が経験したことがしつけだと思ったり、虐待を肯定してしまったりすることがある。

・虐待をしていると自覚してもやめられない場合がある。それは幼い頃の自分を目の前の子供に投影するから

 

ということを私は大学での学びや、自分を育てなおすための独学によって知っていました。

 

 だから私は、息子への怒りが「虐待の連鎖」からのものであると気づくことができました。そして自分を育てなおすことに本気で向き合いました。それは「私は子供を虐待したくない。」「私の味わったような苦しい辛い思いを子供にさせたくない。」「虐待の連鎖を私が止めたい、子供に引き継ぎたくない。」という強い思いからでした。

 

 それからの私は自分で「自分の中の子供時代の私(インナーチャイルド)」の気持ちに耳を傾け、抱きしめ癒していきました。カウンセリングには通わず、自分で心理学の書籍などに書かれたトラウマセラピーやインナーチャイルドの癒しなどを行い、自分の中の傷ついた心を癒し、幼少の頃から否定され続けてきたありのままの自分をそのまま認め受け入れ愛して、自分を育て直しました。

 時には母に当時の自分の気持ちを伝えもしました。その時母は、私に詫びることもなく、「親に偉そうに言うな!」と逆にまた怒られました。私は母に失望しましたが、自分の思いを母に伝えられたことで、自尊心を満たし、自己肯定することができました。

 そうして私は自分の中の怒りや口惜しさに向き合い、子供への虐待の連鎖を切ることができました。

 

 それからは息子の心に寄り添い、反抗期の時の彼の罵声の中にも「助けて」という心の叫びを受け取ることができ、その心に寄り添って共感し、応援し続けることができました。

 元夫は息子のことを理解できず、本当に、様々なことがありましたが、息子は希望の大学で学び、卒業して今は心身ともに自立して自分の生きたい人生を頑張って生きて、幸せな日々を送っています(^-^)。

 

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2017.12クジラ島を背景に(左から)息子・娘・私の幸せなひと時

 

  忘れゆく人生の意味

 先日、私はついに私の存在を母に忘れられました。母のいる介護施設でテレビ電話越しに母と面会しましたが、もう娘の存在も私のことも忘れて思い出せないようでした。

 

 母は母なりに一生懸命に生きてきました。母なりに一生懸命に私を育ててくれました。父との色々な苦労や幸せな日々もありました。

 今母はそのほとんどを忘れています。ただ目の前の今を元気に幸せに生きています。

 

 忘れてしまった今までの母の人生は、母にとってどんな意味があったのでしょう。

 忘れずに最期を迎えたとしても、この世に存在しなくなった時、その人の生きた意味はなんであるのか。人それぞれの考えや気持ちがあると思います。

 私は、忘れてしまっても、この世からいなくなっても、その人が生きていた意味がなくなるとは思いません。

 その生きてきた意味は、今ここにいる自分が作るのだと思います。

 私は過去や未来も、今私が私のまま本当に生きたい自分を生きることが、私の生きた意味を生むと思います。

 私は私らしく幸せに輝いて生きることで、この世界の希望になりたい。そしてできることなら、その光を必要な人や存在に届けたい。その光を必要とする人たちと共有し共鳴し、生命が輝く調和した世界の一筋の光になれるなら、私はその人生を忘れても、この世からいなくなっても本望だと思います。

 人間の人生だけでなく動物も植物も、ただありのままの自分で精一杯生きて輝くことが、生命の本望だと思います。

 そして人は、その思い、感謝や喜びを他者に伝え共有することができます。

 人には本能のままではなく、本当に生きたい本望の人生を選択する力があります。

 本能や世相に流されたり、不本意な世界や人生を受け入れて諦めの世界を生きるのではなく、どんな世界であっても自分や人の可能性を信じて生きたい自分を生きることは、本来人の持っている素晴らしい力だと思います。

 

 私は自分の人生を通して、様々な思いや学びを得てきました。ありのままの自分を受け入れ愛することができる今、私は自分や家族など身内の幸せだけでなく、一人でも必要とする人に、その人の生きたい人生を生きるための希望と勇気が届くように願って、これからも私らしく幸せに作品やブログの制作をしていきたいと思います。

 

 最後までお読みくださりありがとうございます。

   みなさんの毎日が自分らしく輝いて幸せでありますように願っています(*^^*)

 

 

 

保護猫やそきち子猫360g(保護当時)

 最近ストイックな内容の記事が続いたので、ちょっと一息。。

 今日はうちの猫、「やそきち」をご紹介します(=^ェ^=)♫

 

 やそきちは実家近くの公園で衰弱してカラスに狙われていたところを、私の家族が犬の散歩中に発見し、保護したのがきっかけで、12年ほど前にうちの子になりました。

保護したその足で動物病院へ連れていき、検査をしてお薬と高栄養ミルクをもらって帰宅しました。その時の体重は380g・・・生後1.5ヶ月くらいでしょうと先生がその時にやそきちの誕生日を「六月一日にしましょう」と決めてくださいました。保護したとき、やそきちは目と鼻が涙と鼻水でカビカビでくちゃくちゃの顔をしていました(^^; お薬とミルクをあげてもほとんど飲まず、水さえも飲まないので、脱水して死んでしまうのではと、私はその日夜が明けるまで泣きながらやそきちが息をしているか見守りました(その時の体重は360gでした)。

 夜が明けて朝一番に再び動物病院へ。先生がやそきちの皮膚に水分を皮下注射をされました。皮下注射されたやそきちは、ぷ〜っと風船みたいに膨らみました(>▽<)””先生が「しばらくして体内に水分が取り込まれたら、しぼみますから心配ないです」と言われ、1時間ほどでやそきちは元のやせっぽちな子猫に戻りました。それからのやそきちは、食欲が出て、高栄養食をモリモリ食べて大きく育ちました(^-^)♫

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保護当時のやそきち猫

 保護して毎日朝昼晩と点鼻薬と目薬を挿しました。すると結膜炎と鼻炎で詰まっていた目と鼻に詰まっていた涙と鼻水がエンドレスに流れ出ました。。特に鼻から・・・。その時に脳みそも流れ出たのではないかしら。。。(今のやそきちの様子を見ていると時々そう思います^^;)

 この写真は保護してしばらくして元気に遊びだした時のものです。

 

 それから数週間後、子供達の夏休みに長野へ家族旅行をすることが決まっていました。この子を一人留守番させるわけにもいかず、病院で預かっていただくことも考えましたが、ポケットサイズだったので車で一緒に旅することにしました。旅ではやそきちとのとてもたくさんの思い出ができました。後日機会があればまたイラストをまじえて記事にしたいと思います(^^)♫

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長野旅行での手のひらサイズのやそきち猫

 

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生後1年くらいのやそきち猫

 

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現在・・・キッチンの排水口に顔を突っ込んだ後のやそきち

 今では食欲旺盛な元気な壮年となりました。現在5500g (=^ェ^=)

 色々武勇伝?あります。。またの機会にご紹介できればと思います。

 

 

 最後までお読みいただきありがとうございましたにゃ。

 

 

自己肯定自己受容の幸せな人生へ

 「あなたはどうしたいの?」(・∀・)

  はじめに、私の作家仲間であるAさんの人生を少しご紹介したいと思います(^-^)。

 Aさんはとても素晴らしい絵を描く人です。Aさんは数年前から家庭の事情で作品の制作を控えてサラリーマンとして務める仕事をしています。

 不本意に仕事と生活が変わり、Aさんは仕事にも家庭にも不満を持っていましたが、あることをきっかけにそんな自分を変えようと決意し、仕事と家庭に向き合い、自分の思い描く良き社会人、良き夫、良き父親になるべく挑戦しました。

 その結果、今彼は不満を持っていた仕事にも家庭にも感謝して取り組めるようになりました。彼は自分に向き合い、不満に思うことと対峙して、不満を感謝に変えることができました。仕事も家庭も子育ても精一杯努力して、悔いなく誠意を尽くしていると自負できる自分になりました。ただ、彼は今心身の病にかかり辛い日々を送っています。それでも「自分の幸せは自分で決める」と決意して今もその人生を精一杯生きています。自分の大切な家族を守るために。子供と過ごす幸せな人生のために。

 

 皆さんはこの彼の姿をどう思われるでしょうか?「自分の苦手なことに向き合い挑戦してやりきった彼は素晴らしい。大したものだ。」と思われる方も多いと思います。

 

 人はどう生きるのもその人の自由です。どんな人生を生きるのも自由です。その上でみんな元気で幸せな人生を生きたいと思うことは、人の自然な気持ちだと思います。Aさんも自分の決めた人生を生きています。自分の決めた人生に精一杯挑戦したことは彼の人生の誇りでしょう。

 ところで彼はなぜ今心身を病んでいるのでしょうか?もともとそういう体質でしょうか?それは私にはどうだと断言できません。けれども病むことには大抵原因があります。病む箇所を酷使したり無理を強い続けると人は病むことが多いです。この場合の酷使するというのは身体の部位を物理的に酷使するだけでなく、そこに連動する心の負荷による酷使も含みます。(例えば緊張を強いる日常の中で胃潰瘍になるなど。)もしかするとAさんも自分自身で心当たりがあるのかもしれません。心当たりがなく突然倒れることもありますが、それは自覚なく無理を強いてきた結果であることが多いのではないでしょうか。

 Aさんは仕事も家庭もできうる限りの真心を精一杯尽くしてきました。そんなAさんの努力の結果が今なのだから、これからただ自分を大切にすることを選択することで、健康な最善の人生が訪れると思います。幸せの基本は生命を大切にすることだから(*^-^*)。

 

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懐かしい場所で待ってる

 

   ありのままの自分の志

 私は以前、本当の自分を抑えてDV気質の夫ととの生活を自分に強いて、「あるべき自分」「ありたい自分」であろうとして努力していました。本来の自分を否定して(ありのままの自分は世間では認められない未熟な自分だから、きちんとした一人前の人になるために努力しなければならない。良き母、良き妻、良き娘、良き社会人であるためには、ありのままの自分ではだめだと、無意識に考えていました。)、生きることに疲弊して身動きが取れなくなっていました。そして自分らしく息をすることさえできなくなっていました。「人に喜ばれる作品、人に必要とされる作品を描かねばならない」と思って、作品も思いのままに描くことができずにいました。パニック障害の症状が現れ、心も体も私に限界を訴えていました(><)""。

 

 そんな私が人生を変える決断をして、ありのままの自分で幸せに生きると決めました。それからの私はもう無理をしたり、「自分の幸せや健康を二の次にすること」を受け入れることをやめると決め、ただ「ありのままの自分で生きること」を心がけて一日一日を生きると決めました。

 その後、ようやく自分としてどう生きていくことが「これからの人生を価値的に生きていくことなのか」に思いを巡らしました。そしてこれからの人生を「自分も他者もありのまま幸せに生きること、それを互いに尊重して仲良く生きる世界」を広めるために生きようと決意しました。

 それから間もなくしてニューヨーク国連本部内での「女性の日記念展覧会」に出展する話が来ました。展覧会の趣旨が、私の伝えたい思いと同じだったため、出展に応募し審査を通過して三月に作品とともに初めてのアメリカ本土ニューヨークへ行きました。その展覧会のパーティーでショートスピーチをする機会があり、現地で原稿を考えて用意しました。その原稿記事は地元新聞社の取材とともにインターネットでも紹介されました。その後も昨年は様々な国で個展や展覧会参加をして国際交流を深めました。

 

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        2019.8    At a solo exhibition in Taiwan

 

   本当の自分の価値観や幸せ

 その中で私は何度か自分と向き合うことがありました。

 それは「日本、京都で生まれ育った自分」、「今までの生まれ育った環境や生きてきた社会などから身についていた自分の物の捉え方や常識」、「日常での自分の身の置き方、振る舞い方、価値観」などにあらためて気づくことでした。

 私が躊躇することなく普段と同じように振る舞い、物事を判断し、発言する(あるいは発言しない)ことが、相手(海外の現地の人)には不思議に感じられたり理解されない、時には誤解を招くことがあったのです。それは今まで生きてきた環境の中で意識せず身についていた価値観や常識などが通用しないためでした。

 日本の中では当たり前のことが通用しなかったり、逆の意味に認識されたりということがありました。そんな中で一番問われたことが「あなたはどうしたいの?という問いでした。それは仕事の方向性の話の時もあれば、プライベートでどうすることが自分の希望に添うのか?といったことなどでした。

 私はその時に自分の日常の生き方、振る舞いの癖に気づきました。

 それは、私は「 "自分はどうしたいのか?"ということに思いを巡らせることなく、" 私がどうすればみんなが幸せ(満足、嬉しい)か " ということで自分の言動や振る舞いを決めようとしている」ということでした。

 その思考や気持ちで相手に返答すると、相手は " よくわからない " という (時に不満げな)表情をして、私にあなたはどうしたいの???と問いました。

 そんなことが重なり、私は「もう自分の幸せを二の次にしない」と決めていたのに、生き方の癖で無意識に「自分の気持ちや幸せよりも周りのことを優先している」ということに気づきました。 

 また、私をありのまま受け入れて尊重してくれる人は「私が希望することを叶えてあげたいと思い、私が幸せであることで相手も幸せ、満足である」ということにも気づきました。

 私の希望を聞いて、自分のしたいことと合わないときは、どうすればお互いが満足するかを思案してくれました。無理な場合は「自分にはそれは無理。だけどこうならできる。」と提案してくれました。それはお互いを尊重し、共に幸せでありたいという気持ちからの言動でした。相手を自分の意に沿わそう、または相手に合わせて無理をするというような作為的な思いからの言動ではなく、自立した人と人との交流でした。

 

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自分らしく呼吸する

 

 ありのままの自分が幸せに生きることが人生の価値

 それから私は改めて自分の人生を見直しました(^^)♪。

年頭に立てた自分の志から始まった海外交流。志は私の本心からのもので、偽りも無理もありません。その「志」を遂行する以前の「 " 本来の自分 " の幸せとはどんなものか」に、私はようやく目を向けました。本来の私の性質は今まで自分に向き合い気づいていましたが、本来の自分は何が幸せなのか、「生まれてきた意味(何をなそうとして生まれてきたのか)」「私という存在としての生きる意味(幸せ)」は何か、ということに、「ありのままの自分で幸せに生きる」と決めてから初めて思い巡らしたのでした(^^;)。

 

 そして私は、「日本人として必要な幸せ、京都で生きる自分として必要な幸せ、家族の中で必要とされる自分の幸せ、言い換えるなら、日本で幸せとされる人生に必要なあるべき自分、京都で円満に生きるために必要な自分のあり方、家族みんなが満足する自分のあるべき言動、姿、」といったものを無意識に判断してそれに合った自分の幸せを、「本来の自分が幸せな生き方であり価値のある人生である」と思い込んでいたということに気づきました。

 私は、「ありのままの私の幸せなこと、それはただ自然と愛する人と共にあること。地球の自然と愛を味わい共に生きること。それが私の幸せであり、この世界に生きる意味である」ということに気づきました。

 

 ある人は父親が家族を守り強く立派であることを見習い、自分もそうあろうと努力します。

  ある人は自分はムラ社会の一部であるから勝手なことは許されない、自分の幸せなど考えても仕方がないと、どこへ向けたものかもわからぬ怒りの中で生きています。

  またある人は、トップが変わると従うべき考えや正義も変わるから、自己主張せずに上の顔色を伺って生きることが賢い生き方だと信じています。

 

 それは、本来自分が望んでいる生き方でしょうか?

 それは本来の自分が幸せを感じることでしょうか?

 人は知らぬ間に今までの常識を自分のそれと信じて生きていることが多々としてあります。

 深く考えずに、自分の感受性を鈍らせて生きる方が、日々に波風を立たせずに生きていける、処世術であると考える人も多いでしょう。

 

 けれども、それで本当に自分は幸せでしょうか?無意識に我慢を重ね、本当の幸せを諦めているなら、それは気づかないまま心身に無理を強いて、病や不調をきたすことがあります。それは自身の心身においてだけではなく、周りとの関係においても、不和や不自然なバランスを生む原因にもなります。

 

 東洋思想の言葉に「衆生所有楽」という言葉があります。人は本来この世界を楽しむために生まれてきたということ。また「桜梅桃李」という言葉もあります。それはそれぞれがありのままの自分で幸せに輝いて生きる世界を説いた言葉です。

 ただ自分らしく幸せを味わう、それを互いに尊重し与え合うことで幸せが増幅し世界にひろがり輝く。「人の役に立つから生きる価値がある」のではなく、「何か価値のあることをするから人生に価値が生まれる」ということでもなく、ただ「自分らしく幸せに生きること」が世界の希望となり、お互いにそれを尊重することで、協力して調和した平和な世界が広がっていくということです。

 

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さあ、どこへ行こう?(2019.7 In Singapore)

 

 無限の可能性を信じて

 現実を見るとそんな世界の実現は夢物語のように感じるかもしれません。でも人は、生命は、本来そういうものであると私は思います。それで今までの生きづらさの理由、なぜ苦しい思いをしてきたのかということもわかりました。

 ただ自分として幸せなことを受け取り味わうこと。それを一人一人が自分に許可し、他者のそれも尊重する世界が広がることを願って、私はこれからもありのままの私の幸せを受け取り、世界にシェアして共に幸せに輝いて生きていきたいと願っています(*^-^*)♫。

 

 

  私がありのまま、ただ幸せでいることを、私を愛する人は喜ぶということ。

 

  私が無理をして与えようとすることを、私を愛する人は喜ばないということ。

 

  人はただありのままで存在することで、誰かの希望の光となる。

 

  ただ自分らしく幸せでいることが、誰かの喜びとなる。

 

  人はただ生きているそれだけで価値がある。

 

  幸せは人それぞれ、ありのまま幸せに生きることが、世界を自由で豊かにする。

 

 

 人には無限の可能性があります。今はもう立ち上がれない、これ以上前に進めない、、、と思う時もあります。けれども人には無限の可能性がある、ということを、私は自分の人生を通して実感しました(*^-^*)♡。ほんの三年前の私は、今の私を想像することもできませんでした。自分らしく息をすることさえできずにいた私が、自由に思いのままに動き、本当の自分を取り戻し元気に幸せに生きている、、、。人は変われる。人には無限の可能性がある。私は今、そう信じて幸せに志のまま生きています。

 

 

 思いのままに綴りました。みなさん人それぞれの考えや感じ方があり、それぞれの心が様々に反応すると思います。それがありのままの自分の幸せを知る、確認することの手助けになれば幸せです。「あなたはどうしたいの?」という問いかけの答えは、それぞれの心の中にあります。

 

 

大変長文になりました。。最後までお読みくださり本当にありがとうございました(*^^*)♡

 

にじいろ羊より 愛を込めて、、、。

 

 

 

 

 

 
 
 

 

DVモラハラ家庭と幸せ妖精ライフの選択

 

 ☆自分の選択した人生を生きている

 

 私は今、自分が決めたことをして生きています(*^o^*)。

それが他者が決めた規則に従うことだとしても、それに従うと決めて、決めたことに即して生きているのは自分自身。

 たとえそれが不本意なことであっても、それに従うと決めて従っているのは自分自身。

 

 

 不本意なことを強要されて従うことでしか生きていけない状況は、あってはならない人権侵害の状況であり、それは個人の問題ではなく社会全体で解決すべき問題です。

 

 それでも、社会に協力を求めずに黙って従うことを選択して生きることは、自分自身が選択している人生です。それは自分で自分の人権を侵害する行為です>_<。

 

 私は以前、そのようなことを考える余裕もないくらい病んでいました。それはすぐキレる夫との生活の中で、いかに子供に「安心して暮らせる時間を提供できるか」に心を配ることで心身が疲弊しきっていたためでした。

  私はあることがきっかけで、自分に向き合い、自分の人生を見直しました。

 

 人権は何のためにあるのか。それは人が幸せに生きて、社会が平和に調和するために必要であるから存在します。

 人は本来、この世に生まれて幸せにこの世界を楽しむことが本望です(^-^)。

 

 私はあることがきっかけで、自分に向き合い、病んでいた自分の人生を見直しました。

 人生には会いたい人や、自分の乗り越えたい課題を共に乗り越える人、自分の鏡になって課題を示してくれる人などとの様々な出会いがあります(^-^)。出会うことは選べなくても、その人と付き合うか付き合わないか、付き合っていくならどういう付き合いをするのかは、自分が決めることができます(^-^)。相手に合わせて付き合うことが常である人も、その生き方、そんな人付き合いをすることを(無意識にでも)選択して生きています。

 それらのことを意識せずに、何となく反応して生きていると、他者や社会の流れに流されて生きる人生となります。自分の人生(日常)を無意識に受け身で生きるとそうなりがちです。

それで幸せに生きていけているなら、何も問題を感じず生きていけますが、大抵の人は何かしら日常の中で不満や我慢を感じることがあると思います(´-`)。

 その不満や我慢がどういったことに対して起こるのか、どんな状態の時に感じるのかを観察してみると、自分の課題が見えると思います。

 なぜ不満に思うのか、それに対してなぜそう(怒りや悲しみ、失望の気持ちなど)感じるのか、そこには自分なりの価値観があります。自分の価値観に合わせて目の前の事柄や人を判断(ジャッジ)しています。

 

 ではその判断(ジャッジ)の基準はどこから生まれ、自分の中にいつからあるものなのか?(。・ω・。)

社会の常識、親がそうだった、人生の経験から学んだ、自己認識や自己評価からの判断、、など様々あると思います。多くの人は、それらを自分の善悪や価値判断の基準にしています。

 

 では、その判断で、自分は幸せだろうか?(。・ω・。)

 その判断によって不満や我慢の気持ちが起こるなら、それは幸せを感じることではないでしょう。

 それを「仕方のないこと」にして、ずっとその人生(日常)を生きていくのか、それとも、「なぜその判断に従い現状に甘んじるのか」自分に向き合って、生きたい人生(日常)にシフトするかは、自分自身が決めることです(^-^)。

 

 このように私は自分と向き合い、自分の心を見直して、生きたい人生にシフトすることを決意しました。

 

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自分の人生を選択する

 

 ☆自分に向き合うということ

 

 自分に向き合うことは勇気が必要なことかもしれません。良くも悪くも人は変化することを怖れる傾向があるからです。けれども自分に向き合い、自分の選択している物事を一つ一つ自分の幸せに合わせて調整することで、人は自分らしく幸せな人生(日常)にシフトすることができます(*^o^*)。

 

 今まで思い込んでいた常識や社会概念、親から言われて信じてきたことなど、、、

それはいつ誰の判断から生まれたものなのか?(・・?)

本当に自分の幸せのためにあるものか?

自分の人生経験からの学びと思い込んでいるそれは、今の自分でもその結果や結論になるか?(・・?)

思い込んできた自分の価値基準を見直すことで、新たな発見があります。

大人になった今の自分が、自分の幸せに必要な物事にフォーカスすること、

その必要な物事の価値基準そのものを見直すことは、本来の自分の生きたい人生や本来の自分の幸せを再認識することにつながります(*^^*)。

 

 再認識した自分の幸せな人生(日常)、幸せな社会、そのためにあるべき常識や自分個人の意識や価値基準(例えば人権を保つことは個人の幸せに必要不可欠です。それを自分は堅持する必要があるなど)を意識して、その新たな意識で不満や我慢を感じる物事をどう捉えるのか、どう対処するのかを認識し直すことで、生きたい人生にシフトしていくことができます(o^^o)。

そうして私は、自分の生きたい人生にシフトしました。それは自分の生きたい人生の幸せに責任を持つことでもありました。自分が選んだ人生、自分が幸せに生きることも自分の選択で決まります。

 

 周りの常識がどうあれ、社会がどうあれ、自分が健康で元気に幸せに生きることは、自分の人としての権利であり、本来の人としての本望です。

 もしもそれを認めない社会や周りの人たちに囲まれていたとしたら、変わるべきはそちらの存在です(。・ω・。)。

 けれどもそれらがすぐに変わる状況ではなく、なおかつそこに留まりたい(一緒にいたい)のであれば、それらに合わせて生きることも個人の自由です(それが自分自身の幸せやみんなにとって最善であるかは別です)(。・ω・。)。

 私は長らく自分の幸せよりも周りの幸せを優先して生きてきました。自分が人や社会の役に立つことで、自分の生きる価値を認めていたからです。本来、人は生きているそのままで素晴らしい存在であることを子供に伝えたかったのに、自分自身がそれとは逆の自己犠牲の人生を生きていました(><)""。

  

 社会や周りの人のために自分があるのではない。人が健康に自由に幸せに生きるために社会は存在し、周りの人とお互いにそれを尊重して生きることが、個人の幸せと社会の平和で調和した世界を実現します(*^▽^*)。

 

 自分はどんな世界に生きたいか、自分はどんな自分でありたいか、自分はどんな人生(日常)を生きたいのか、それを自分の価値判断から見直して明確にすることは、自分の幸せな人生と平和な社会へシフトするための、大きな初めの一歩になります(*^_^*)。

 

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自分らしく幸せに生きる

 

 

 ☆幸せに生きる決意をすること

 

 私は、親や社会の常識や決めつけの中で生きてきました。そして本来の自分は「ダメな自分」であると思い込み、社会の常識に合う自分を目指しました。それは本来の自分を否定し、自己評価の低い自分を生み出しました。

 けれどもある日から私は、そんな自分と向き合い、自分の価値観などを一つ一つ見直し、自分を育て直してきました。そして今私は、ありのままの自分を受け入れ自分らしく幸せに、周りの人たちと仲良く健全な日常を生きています(^-^)。

 

 私がそんな自分になれたのは、私が日本に生まれ自分と向き合う(心身ともに)余裕のある社会で育ち、自由に書籍などを利用して先人の知恵や世界の状況などを見聞することができたことが大きいと思います。

 現実として、生まれながらに自分で生き方を選択できない状態の方や、自分に向き合うとか価値観を見直すとかそんな余裕のない、今を生きることで精一杯の方も、日本であれ世界であれたくさんおられます。

 だからこそ、少しでもそれに向き合い、幸せや平和を生むことが、自分の役割であり本望であると、私は信じています。

 

 私の恩師の言葉に「大学は大学に行けない人のためにある」という言葉があります。

 人は社会性の動物です。自分だけが幸せな世界は存在しません。

 そして人は他者の幸せのために生きることで強くなり、幸せを感じる生き物です。

 そんな本来の人として幸せに平和な世界で生きるために一番大切なことは、「本来の自分の幸せを確保する決意」です。

 何故ならば、どんなに周りや社会が、「幸せのために必要なこと」を提供しようとしても、それを認識して受け取れる自分でないと、「自分として幸せに生きること」ができないからです。

 

 ☆自分の大切な人のために

 私は自分のため、そしてこの瞬間を生きることで精一杯の人のためにも、「自分らしく幸せに生きる人生」を生きて、その世界を発信していこうと思っています。

 

 社会の平和も、地域や職場、家庭の平和も、自分自身の心から変わります。

 心こそ大切なれ。

 だから私は今日も自分に向き合います。そしてこの拙いブログも誰か一人でも必要とする人にこの思いが届くことを願って発信しています。

 

   これは私自身の生きてきて得た人生の教訓でもあります。  

 幼い頃からの家庭環境からの自己評価の低さ、自己否定、自己愛の低さ、様々な「自分らしく幸せに生きる」ことを否定する観念が、私の常識になっていました。大人になって大学や社会で学び知った知識から「私の思い込んでいる私は、生まれ育った環境からすり込まれたものである」ということに気づき、自分と向き合い自分自身を育て直しました。

 それでも無意識に判断している日常の出来事は、自分の幸せを二の次にしていました。

 自分の新たな家庭を持ち、夫のDV、姑からのモラハラなど様々なことに耐えながら子育てする中で私は病んでいきました。

 けれども、大切な人のために、その存在に「幸せな人生」を示すために、このままではダメだ、変わろうと決意しました。

 そして私は自分自身に向き合って、「自分らしく幸せに生きる人生」にシフトしました。

 自分のためだと諦めてしまう人生も、大切な人のためなら諦められず、人生を変える決意と実行ができました。

 

 

 人にはそれぞれ物事の捉え方や感じ方があると思います。私のこの記事を読んで反応した自分の気持ちに目を向けていただければ、ご自身の感じ方や考え方に気づく手助けになるかもしれません。

 みんなが元気で幸せな、自分らしくリラックスして周りと仲良く調和して生きる世界が、少しでも拡がることを願っています。

 

 拙い長文を最後までお読みくださりありがとうございました(*^-^*)♡

 

 

 

 

 

 

幸せな人生へ舵をとる

 

今日は、幸せな人生へ舵をとる私のビフォーアフターを少し書いてみようと思います(*'ω'*)

 

 それは、DVな性格の夫と日常を生きていた頃のこと。

 その頃の私はうつ状態だったと思うけど、子供に心配をかけたくなくて、朝起きて笑顔で子供達を学校へ送り出し、子供と一緒にいる間は、普通に元気に振舞っていました。

そんな日常の、子供を塾へ送った帰り道や買い物に出かける時など、誰も同乗せず一人で車を運転しているときは、思うともなく「このまま事故って死んでしまえばいいのに」と流れる涙もそのままに車を運転していました。あの頃、私は死ぬ意欲も生きる意欲もないまま、ただ早く一日一日が過ぎることだけが自分の命を繋ぐ術だったと思います。

 子供を学校へ送り出した後、子供が帰宅する夕方まで、ひたすら眠っている時もありました。鬱からの過眠症だったと思う。子供のために死ぬわけにいかない、でも生きたくもない、ただ一日一日が過ぎるために眠っていたように思います。

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京都伏見の桜・・・綺麗ね。生きていればこそ。

 

 体を起こすことも大変なエネルギーを必要とする、食事をしても味がしない、見るものすべてが色のない世界・・本当に世界が薄い黒の紗がかかってるように見えました。

生きたい現実と実際の現状、ありたい自分の理想像と現実の自分のギャップを越えようと頑張って、力尽きた感じでした。

 

 私は夫と出会い「この人なら私を丸ごと受け止めて大事にしてくれる」と思って結婚しました。(´⊙ω⊙`)ww 結婚した当初は夫も優しくて私は夫に甘えてのびのびと暮らしていました。

その後子供が生まれて、夫が仕事の多忙などから心に余裕がなくなってきて、夫のDVが始まりました。それでも私は、夫が改心して仲良く家族で生きられるように、夫となんども話し合い、夫は反省しては同じことを繰り返し、それでも私は離婚せずに家庭を保とうと頑張っていました。(*´Д`*)

 だけど、頭痛、動悸、手足の震え、、、様々な症状を発症し、夫との人生に限界を感じ、様々な難題がありましたが全て乗り越えて、新しい人生へ舵をとりました。

 

 今はわかります。なぜ鬱状態パニック障害の発症に至ったのか。なぜDV夫と結婚したのか、その結婚生活を解消できずにいたのか。

いくつかの原因があると思います。

一つは、ありのままの私を自分で認めていなかったこと。

ありのままの私を受け入れていなかった、大切にしていなかったこと。

それらのことから日常的に心に無理を強いていたこと。

そして、自分を認めない受け入れていないまま、他者(夫)で足りないもの満たされないものを補おうとしていたこと。

それによる夫との共依存関係。

それらのことが合わさり、ずっと無理をして生きていました。

そんな人生を生きる限界を超えた頃、あることがきっかけとなり人生を開く決意をし、そんな人生を卒業して新しい自分を大切にする人生の扉を開きました(*^-^*)。

 

それからの私は、まず無理することをやめると決めました(´・ω・`)。

長らく自分の気持ちや幸せを二の次にしていた私は、何が無理で何がしたいことなのか、判断することに自信がなくて、また無理をする人生を生きるのは嫌だから、自ら積極的に物事を選んで生きることを躊躇していました。いわば心のリハビリ期間。(*゚∀゚*)/

そんな時間を一年半ほど過ごして、ようやく人間社会の中で新しい人生を生きようと、人生を前に進む意欲が湧きました。

その後も今日まで様々なことがあり、いろいろな思いをしてきたけど、長くなったのでその話しはまたの機会に。(*^^*)/♫

 

 今日は自分の鬱だっった頃のことを簡単にだけど書くことができました。

今の私は心から安らいでリラックスして幸せな毎日を生きています♡♫( >▽< )♡♡♫。

今は子供も二人とも成人して社会人となり、子供が帰省した時は親子四人でご飯を食べに行ったりして幸せな時間を過ごします。

周りに理解されなくても、共感されなくても、たとえ非難されようとも、独りぼっちになろうとも、もう私は二度とあの頃の私には戻りません(*^ω^*)♡♫。

私は自分で自分の幸せを選択します。

私は自分の幸せな人生へ舵をとります( ^ω^ )♫。

私は自分で自分の幸せな人生を創ります♡♬v(๑>◡<๑)v♫。

 

 

どうかこんな私が生きている姿が、誰かの希望になりますように、、、。

そう願って、ブログを書いています。*\(^o^)/*♡

 

最後までお読みくださりありがとございました(@^^@)♡

また気軽にきてくだされば嬉しいです♫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「生きている」それが生命の勝利

☆ 背中の傷は勲章か? 

 

こんにちは(^▽^)♫ 春の穏やかな光と風の中、新しい自分へ誘うかのように、菜の花が陽の光の中で揺れています。

 

あなたは 力のない小さな存在ではない。

あなたらしく輝くことで 世界を照らす

人々の希望の光になる存在です。

 

 私は母から「躾」という名のもとに、今でいう「虐待」を受けて育ちました。

 ある日私は、母の暴力によって背中に一生残る傷を負いました。

 その傷跡はミミズ腫れのようになりもりあがっていました。その傷跡を時々手でなぞり、どれくらいもりあがりが薄くなったか確認していました。その傷は大人になってもずっとミミズ腫れのままで、背中の空いた服を着るとその傷が見えることがあり、それを見た友達から「どうしたの、背中?」と尋ねられることもありました。この傷は、ずっと私の心の傷にもなっていました。

 

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2020.3 ©︎Hearing Art snowy In the middle of work

 

 昔は、背中に傷を持つことは敵から逃げた結果だとされ、不名誉であるという考えがありました。けれど今の私はこの傷を「自分が生きるために自分を護った名誉の傷だ」と思います。それは、幼かった自分が、親の庇護のもと生きるために「自分を護った」ために得た傷だからです。本当は、「名誉の傷」なんて受けないほうがいい。今の私なら、黙って身を屈めて母からの暴力に甘んじることはないです。けれど当時の私にはそうすることが自分を護る術でした。

 

 もし今の私が当時の自分に伝えることができたなら私は

「我慢しなくていい。逃げて。助けを求めれば誰かが気づいて助けてくれる。」

と言いたいです。

 

 私が幼かった頃の日本の社会は、今よりも虐待という認識が薄く、躾という名のもとに虐待が日常的に繰り返されていましたから、当時私が声をあげても、「躾」として誰も取り合ってくれなかったかもしれません。今の社会は少なくともあの頃よりはずっと、子供や個人の人権への意識が高いと思います。けれど当時の私は「人権を侵害されている」とか、「これは虐待行為だから甘んじてはいけない」とかいう意識がない(それは今の幼い子供達もそうだと思います)ので、身を屈めて母の怒りが収まるのを待つことが生きる術でした。

 今の私は背中の傷も薄くなり、心の傷も自分と向き合う中で癒え、母を恨む気持ちも消えてただ愛することで幸せに生きています。

 そして今私は「一人一人が自分らしく幸せに生きることは当然の権利である」という意識が拡がることを願っています。その意識が拡大するためには、社会の意識が変わることの以前にまず自分自身、一人一人が「私は私らしく生きていい。ありのままの自分で幸せに生きていい。」と認識すること、そんな人生を生きていいと自分自身に許可することが必要だと痛感します。

  

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2020.3 ©︎Healing Art snowy In the middle of work 2.

 

☆「生きている」それが生命の勝利 

今あなたは このブログをどんな気持ちで読んでいますか?

ほっと一息つきたい

何も考えたくない

前を向いて幸せな人生にシフトしたい など

私たちは 日々の暮らしの中で いろいろな気持ちになりますよね。

 

嬉しいことがあった時は

私って なんて幸せ者なの♬

人生は愛に溢れている💖

そんな気持ちになったり

 

悲しいことや 辛いこと、腹ただしいことがあった時は

胸が苦しくて

もう何もかも嫌になってしまう

そんな気持ちになったり

 

日々の生活の中で起こる、様々な出来事によって生じるいろいろな気持ちにあわせて

自分という存在を宝物のように感じたり

部屋のすみにあるちっぽけなホコリのように感じることがあるかもしれません。

 

 

 

空を見上げて。

どんな空が見えるかしら?

どんな風を感じるかしら?

それはどんな温かさ?

どんな匂い?

 

それが心地よいものであるときは

深呼吸をして

五感に集中してみます。

 

それらを感じることのできる

心と身体

それは 他の誰のものでもなく

自分自身のもの。

 

今 嬉しい 幸せな気持ちであれば

そんな自分と世界に

「ありがとう」と言ってみる。

きっと自分と世界が 輝きはじめます。

 

もしその空や風が

心地よく感じられなかったり

不快であったり

何も感じられないのであれば

少しだけ

自分に優しくしてあげてみます。

忙しくても

余裕がなくても

自分に許可できなくても

自分に優しくしてあげてみる。

 

お気に入りの場所へ行ってみる。

自分のために美味しいお茶をいれてみる。

 そんな余裕もないときは自分に言ってあげます。

「頑張って生きていて偉いね」と・・・。

自分を抱きしめてあげる・・。

 

「生きている」

それが生命の勝利

「生きている」

それが幸せな明日に繋がる

 

信じられなくても

自信がなくても

大丈夫

 

人は

幸せに生きるために

生まれてきたのだから

 

 あなたは力のない小さな存在ではない。

自分らしく輝くことで 世界を照らす

人々の希望の光になる存在です。

 

そう言いきれる私になったから

このブログを始めました。

 

最後まで読んでくださって

ありがとうございます(*^^*)

また気軽に訪れてくだされば幸せです(^^)♬

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は春分の日、新しい春の始まりに

   ー 希望 ー

 

 春に去りゆくものあり

 離れゆき

 別れゆく

 

 残された私は

 一人 深い闇の底に沈む

 

 一人 うつむく私の前に

 どこからか ひとひらの花びら

 

 花びらを 目で追い

 見上げれば

 空

 

 

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©︎healing art snowy

 

 なくしたもののため

 空いた胸の奥

 入りこみ

 しみわたる

 あたたかな 春の風

 

 目をとじると

 そこに 春の気配が

 

 

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にじいろ羊の贈り物 〜 Love Songs 〜 より 2007 ©︎snowy STUDIO WARP

 

 呼んでいる

 呼んでいる

 私を

 春が

 

       呼んでみる

       呼んでみる

       春を

       光を

       風を

       呼んでみる

 

 

 呼び

 呼ばれて

 私の心は 春をみつける

 

 別れが

 新しい季節を はこぶ

 

 呼び

 呼ばれて

 私の心は

 春へと むかう

 

 

 

 

 

(オリジナルポストカード本「にじいろ羊の贈り物 〜 Love Songs 〜」より、抜粋)

 

 

今日は立春ですね。春は手放しと出会いの季節。

新しい春のはじまりの日に、希望という名の詩をお届けしました。

皆様の春の日に、希望と明るい日差しが届くことを願っています。

 

 

 

 

 

 

私らしく幸せなこと介護と老後と

  先日ふと自分の気持ちに気づいて涙がでました。

 

  昨日は母の病院での診察の付き添いと、老健施設にいる父の面会に行きました。両親は今、それぞれ別々の老健施設で暮らしています。私は週一ペースで、両親の洗濯物の交換(洗濯済みの着替えを施設のタンスに仕舞って、洗濯物を持ち帰ります)と両親の様子を見るために、それぞれが暮らしている施設を巡ります。冬は洗濯物がかさばり重いので大変です(><)""。でもそれは父も母も元気で生きていてくれればこその大変さであり、幸せなことだなあと思います(*^-^*)♫。

 先日ふと、そう思える私になったんだと気づいて涙が出ました。

 

 私は大人になって自分のことを客観的に見るようになってから、両親に対して複雑な思いを抱えていました。私はずっと母との関係に悩んでいました。母のせいで自己肯定の低い、生きづらい自分になったと思っていました。父に対しても大人になってから「子供が虐待されているのを目の前にしていてなぜ助けてくれなかったのか」など、男性不信の元になる想いも抱えてきました。

 

 私は大人になってから、ありたい自分と、生きたい自分の人生と、心の奥底にある自分の想いとがバラバラな中、自分と向き合い、自分の心の奥底にフリーズしていた想いを発見し、そこに向き合って自分を受け入れありのまま認めて、自分を抱きしめて愛して自分を育て直してきました。

 そんなある日、両親をありのまま受け入れて幸せを願う自分になっていることに気づいた時、私は本当に幸せだと思えました。両親も完璧ではない、一人の人間であることを認めて、母なりに父なりに一生懸命私を育ててくれてきたことに感謝と人としての愛おしさを感じました(*^-^*)♡。

 

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2019 ガーデンミュージアム比叡

 私の両親は元気な頃、自分の子供(私)に世話にならないようと毎日たくさん歩いて食事や生活も健康に気をつけて生活していました。それで長らく自宅で両親二人元気に過ごしていました。

 けれど母が認知症を発症、父は心臓が弱り心不全で入院したりして、両親共に自宅で生活することが困難になっていきました。初めは自宅で生活できるように自宅を改装したり、ケアマネージャーと相談しながらデイケアの施設を利用するなどしていましたが、今では両親それぞれが快適に安全に過ごせる施設で生活しています。

 実際のところ、施設利用のための支払いや、洗濯物や家の管理維持、両親の郵便物や資産管理それに伴う諸々の手続きや支払いのほか細々とした雑務など、日常の中でなんとなくのストレスがずっとあります。今の高齢化社会では私のような思いをしている方や、私よりも大変な思いをされている方もたくさんおられると思います。

 

 両親の状態は1,2ヶ月で変わったりして、その都度親に合わせたケアやフォローを思案しています。親の変化する状態は私には初めてのことばかりで、どう対処することが本人にとって一番幸せなのか毎回悩みます。そしてそれが本当に本人にとって幸せで最良なのかわかりません。けれども毎回、ケアマネージャーや施設や役所の人の助言などで、手助けがあることを知り、救われています。日常両親のフォローをする中で、私の知識や経験だけでは思いつかない知り得ないことがたくさんあります。

 

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2019 ガーデンミュージアム比叡

 施設に入らず私が親を自宅で見ることも考えました。だけど両親ともそれぞれの理由で、自宅よりも施設で暮らす方が安全安心快適で、本人も幸せだという結論になり、両親ともできる限り施設でお世話になることにしました。私のわがままかもしれませんが、私は少しでも両親に元気で長生きしてほしいので、そのためには施設の方が良いと判断しています。以前は両親とも自宅でのんびり過ごしたいと言っていて、私もそのために努力していましたが、今は両親とも体力気力が衰えていて、父は自宅では無理だと理解しています(でも本当は自宅で過ごしたいのかもしれません・・・)。母は認知症のためよくわかっていませんが、以前のように自宅へ帰りたいという発想がなくなっているようです。

 

 そんな日々年老いていく両親を見ていて、自分はどう歳をとっていきたいのか、今できることの何をどう生きていきたいのか、年老いて体が不自由になったとしたら私は何をしていれば幸せなのか、認知症になった時に私はどうあれば幸せなのか、様々考えそのために今どうすればいいのか思案しています。そして最近その一つ一つに答えを出しています。(具体的に書きたかったけど長くなったのでまたの機会にします^-^;)その答えは人それぞれだと思います。 

 

 今私が理解していることは、人は一人じゃないということ。困ったことがあれば一人で悩んでいてもどんどん不安になり悲観的になるだけなので、誰かに話すこと。それは家族や身内でなくてもいい(場合によっては家族や身内に相談することでより追い詰められたり苦しくなったりするということも経験しました。)。私は誰かに話すことで社会での手助けしてもらえる道が見えました。今の日本は福祉社会であり、助け合うことのできるシステムが存在しているということを実感しています。でもそのシステムや制度は、誰にも話さずに悩んでいたら気づけないことが多かったです。都道府県や市町村の発行している広報などで公開されていることも、自分に関係ない時には読んでも意識がスルーして気づけなかったりしていました。

 

 私は今、こんな日常を過ごしています(*^-^*)/♫。それは「ありのままの自分が幸せなことを選択して生きる」と決めたから。何が最善かはわからないけれど、両親の幸せを願って、できることをする生活は私にとって幸せなことだから。

 そしてそんな日常の中で、助け合える社会にいる幸せ、私にとって自分らしく幸せに生きていく老いていく日々はどんな日常か、私は老後どんな風に生きたいか、ということに自分として向き合い答えを出してきました。

 今はそのために今何をしていくのか、どうあるのかを、自分に問い答えを出してその人生を生きています。

 

 両親の傍にいると、せつなかったり、胸がふさぐ思いになることもあるけれど、そんなことを経験し味わいながら人の気持ちを知り、人という存在を愛しく思うので、私はやっぱり幸せものだなあと思います。

 そしてもう一つ私が気をつけている大切なことは、「自分の幸せを犠牲にしない」「無理をしない」ということ。それは今までの人生でさんざん自分に自己犠牲を強いてきた私が、2016年10月から始まった親の介護生活から得た結論です。(長くなってしまったので、これはまたの機会に綴りたいと思います^^;)

 

 

 

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。

 また気軽に見にきていただければ嬉しいです(^-^)♫