私のままでいいんだよ自己肯定と自尊心
最期の時は本望か
最近、仕事でお世話になった方が突然亡くなりました。心よりご冥福をお祈り申し上げるとともに、自らの今を振り返りました。私は もしも今人生が終わったとしたら、幸せか、悔いはないか・・・。
人も含め全ての生物は、いつか終わりの日を迎えます。それは決まっている自然の理りです。終わりの瞬間をどう迎えるのか。恐怖や悲しみの中で迎えるのか、喜びや安心の中でその時を迎えるのか。「その時」はいつやってくるかわかりません。年齢や状況に関係なく突然おとずれることもあります。(私の友人の息子さんは「おやすみ」と言って普通に就寝した翌日の朝、布団の中で冷たくなって発見されました。元気な19歳の息子さんでした・・・。)
「その時」がいつ来るのかわからない。「終わりの瞬間をどう迎えるのか」は、その瞬間を「どう生きていたのか」ということ。その瞬間はおそらく生きてきた日々のその先にあるもの。毎日をどう生きているかが、どうその時を迎えるかに繋がるのだと思います。
どんな最期であれば、幸せか、悔いがないか・・・?病気や事故など亡くなり方は様々ですが、その時にどんな思いで逝くのかは、自分の選択する日々で決まるのだと思います。
人や社会に合わせて不本意に生きていたのであれば、自分の生きたかった人生や、やり残したことを思ってこの世に未練を持ったままかもしれません。あるいはそれすらも諦めて寂しく残念な思いであるかもしれません。ただ、人や社会に合わせることが不幸だというわけではなく、どんな人生であっても、自分の本望の人生であれば、その時に悔いはなく晴れ晴れと逝くのだと思います。いつその時が来ても悔いのないように、「これが終わったら自分の本望(心から望む幸せ)の人生を生きよう」ではなく、本望の人生の中で、本意であることのできることをしていこうと思います。
私は、この時をありのままの自分で幸せを選択して生きていくと決めました。その私の姿が、周りの人の希望や道しるべになれば本望です。
自分を大切にすることは人権・幸福・平和の基本
私の記事の主なテーマは「” ありのままの自分で幸せに生きること ” で、自他ともに尊重し幸せに生きる個人の幸福な人生と、平和な世界を目指す」というものです。
心理学の用語に「セルフエスティーム」というものがあります。その意味は「自分を大切にすること」です。日本語では「自己肯定感」「自尊心」などと訳されます。
またエンパワメント・センター主宰の森田ゆり氏は人権意識とは「自分を大切にすること」であり、「日本では自分を大切にすることは利己的で悪いことであるかのようにとられがちである」という問題性を指摘し、「人権意識を持つということは憲法や権利条約を学んで知識を増やすことではなく、高いセルフエスティームを持つことにほかならない。」としています。
(森田ゆり『エンパワメントと人権 こころの力のみなもとへ』 解放出版社, 1998年, PP.31〜34)
(以上参考文献:社会教育特講 木全力夫・平井康章 H14.2.25 新訂版 創価大学出版部 広文堂印刷(株) p104〜p105 )
上記の森田氏の記述は1998年に出版されたものに記載されており、この頃よりは現在の日本では「多様性」「SDGs」「LGBT」など個人や世界、マイノリティなどの様々な視点で人権が見直されているようですが、「自分を大切にすること」、つまりは高いエスティームを持つことが自分を護り他者を尊重して、健康で平和な社会を築くための大切な基本であることは変わりないことだと思います。
自分を大切にすることは、他者を大切にすることへの意識を生みます。
自己肯定は、ありのままの自分、そのままの自分を肯定することです。
* " 自己肯定感とは自己価値に関する感覚であり、自分が自分についてどう考え、どう感じているかによって決まる感覚 "である。
* " そのままの自分を認め受け入れ、自分を尊重し、自己価値を感じて自らの全存在を肯定する「自己肯定感」の感覚は、何ができるか、何を持っているか、人と比べて優れているかどうかで自分を評価するのではなく、そのままの自分を認める感覚である。
* 「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない存在」だと思える心の状態が土台となる。
この感覚を持てると、自分を尊重するように、他者や周りも尊重できる。
すると他者からも尊重され、お互いに尊重し合える関係が作れる。 "
ということが記載されています。( https://www.self-esteem.or.jp/selfesteem/ )
自分をありのまま受け入れ肯定すること(自己肯定)が、自分も他者もありのまま尊重する意識を生みます。それが人権の基本です。
私はこのようなセルフエスティームを主軸として生きる時、自分も他者も尊重して協力して生きる世界が広がるのだと思います。
私の人生は長らく
"「自分はダメな人間だから」こうあらねば "、
"「愛されるために」これができなければならない" といった、
自分を肯定できず、自尊心の低い自分の人生でした。
その人生は自分を大切にするよりも家族やまわりの人を優先する、苦しい人生でした。
私は結婚後に、その原因が自分の自己肯定、自己受容、自尊心の低さからきていることに気づき、自分を育て直してきました。母への心の葛藤、子供への口惜しい気持ちを胸に、自分をありのまま受け入れ認め愛することで、自分を育て直して、トラウマや虐待の連鎖を断ち切ってきました。
私は自分を育て直し自立した結果、共依存関係だった夫とのバランスが崩れ、私の人生は本来の自分を大切にする生き方に変わりました。
人として健康・健全に生きる権利を求め護る
もしも今、私の子供が小さかった頃に戻るなら、あの頃と同じ生き方はしません。今の私は、あの頃の私とは違います。今の私は、ありのままの自分を受け入れ肯定し、自分らしく生きることは、人権を尊重した健全な人生であることを認識しているからです。今の私がもしあの頃に戻るなら、家族の依存(DVや人生の強要など)を拒み自立した人生を選択します。もしもそれが社会通念からずれていたとしても、まわりに理解されないとしても、自分の「人として健康・健全で幸せに生きる権利」を護ります。
それは、自分が幸せな人生を得ることの大切さとともに、子供にその人生を示すことで「自立して本望の人生を選択することは、当然認められる人権を護るものである」ことを、子供に伝えたいからです。
いくら子供に「自由に思うように生きれば良い。」「あなたの人生を誰かのために犠牲にしてはいけない」「私(親)もあなた(子供)も同じ一個の人間であり、尊重される必要がある。」と口で伝えたとしても、行動が伴わなければ、本当の「人権」「幸せになる選択をする権利」を伝えることができないからです。
私が子供のために不本意な人生を生きるならば、子供にその人生を雛形として見せてしまいます。本望の人生を選択したら自分の人生に責任と覚悟も生まれ、自分の人生の幸不幸を家族や社会など他者の責任にすることもないでしょう。
私はそのことに子育ての途中で気がつき始めましたが、自分の中の古い常識から「子供はできるだけ両親揃って子育てすることが良い」と形式に囚われて身動きできずにいました。その実、自分が人生を変えることが怖かったのだと思います。自分が一人で子供と生きていく自信と勇気が足りなかったのだと思います。それはその時の私には自分の生きる力への信頼と、社会からの支援の知識が足りなかったためです。
自分の人生を尊重しても、自分の人権を護っても、子供を育てることはできます。子供を養育することは親の責務と愛情です。それはどんな状況や形ででも果たすことができます。子育ては一人でするものではありません。自分の人権や安全で健康・健全な生活を確保しながら子育てをすることは可能であり、それが可能であることは社会的にも保証される必要があります。
自分自身の生きる力と社会からの支援
過ぎたことなので今更言ってもたわ言になるかもしれませんが、今の私なら、形ではなく本当の自立した幸せを子供に伝えるために、人生を変えます。
それは、どんな時も自分らしく元気に生きていけるということがわかったからです。私自身の生きる力と、社会からの支援を知ったからです。
当時の私は悩みながらも他者に相談していませんでした。ただ耐えていました。人生を変える決意をした時に初めて、公共のDVなどの相談窓口を訪ねました。そこで様々な支援があることや、自分の今の状況が社会的に見ても普通ではない、人権侵害や生命に関わることであるという事実を知りました。その状況に甘んじることは自分への人権侵害であり、子供へも言い訳できない「自分の可能性と社会のサポートを信じきれない諦めの共依存関係の家庭を維持する」ということになると知りました。
それは一つの公共施設の無料相談から始まりました。私は一人で悩み諦めていましたが、相談すると次々と現状を客観的に知ることができ、改善のための方法が示されていきました。それらは相談することで知り得たものでした。書籍などで知識として知っていたことも、自分の身に沿ってどう対処すれば良いかという視点や情報、スキル、支援団体の存在などを直接専門家(私の場合は府市町村に設置された「女性・市民」「法律」「DV」の相談窓口など)に相談することによって得ることができ、具体的に人生を動かす力となりました。だから今の私であれば、もし今あの時の状況であっても、あの頃のように諦めの人生を生きないと思います。
今私は子供たちに事実を伝え、「自立することの大切さ」、つまりは「自己肯定・自己受容をしてありのままの自分を受け入れ認めることによって、自分を受け入れ愛することで自立する」ことの大切さを伝えています。
自分の人生は自分のもの。誰かに委ねて幸せ不幸せを誰かのせいにして不本意に生きていくのも、自分の本望に生きて「これが私の人生だ」と自立した心でまわリと協力して仲良く生きていくのも、自分自身の選択です。
人には本来、自分らしく元気に幸せに生きていく生命が備わっています。
そして今私はそれを保証する人権を尊重する社会に生きています。
それが叶わない状況であれば、助け合い協力しあえる社会に生きています。
その社会状況を活用するためには、どんな手助けがあるか知らなければなりません。
そのためには自ら求めること、声を上げることが必要であることを、私は経験の中から学びました。
求める気持ちがあれば、市町村の広報や必要な支援を受けられる団体の広告などが目に留まります。幸せでないなら、諦めず、こんなものだと受け入れず、なりたい自分、生きたい日々を求めて顔を上げること、求めることが、自分も他者も幸せに生きる人生の始まりだと痛感しています。
自分の子供に伝えるとともに、過去の私と同じような辛い思いをしている人が「自分の人生は変えることができる」「自分には健康に幸せに生きる権利がある」ということに気づき、必要なことを求められるようになることを願って、今私は これを書いています。一期一会で出会った方、お会いしたこともないけれどこのブログなどでふと読んでくださった方、作品展示の際のスピーチなど、機会があれば喜んで私の知り得たことと、自分自身の人権を護る大切さとその方法をお伝えしていきたいと願っています。
拙い長文を最後までお読みくださりありがとうございました。